アームストロング砲

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110ポンド(7インチ)アームストロング砲

アームストロング砲(アームストロングほう)とは、イギリスウィリアム・アームストロング1855年に開発した大砲の一種。マーチン・フォン・ウォーレンドルフ英語版が発明した後装式ライフル砲を改良したもので、装填時間は従来の数分の一から、大型砲では10分の1にまで短縮された。砲身は錬鉄製で、複数の筒を重ね合わせる層成砲身で鋳造砲に比べて軽量であった。このような特徴から、同時代の火砲の中では優れた性能を持っていた。

開発

1854年、アームストロングはイギリス陸軍大臣(Secretary of State for War)ニューカッスル公ヘンリー・ペルハム=クリントン(Henry Pelham-Clinton, 5th Duke of Newcastle)に対して、3ポンド施条後装砲の開発を提案した。後に砲腔を拡大し5ポンド砲としたが、射程・精度共に満足すべきものであった。その後3年間、アームストロングは開発を続け、より大口径の砲にも後装式を採用した。

1858年にアームストロングの後装砲は軍に採用されたが、最初は「野戦特別部隊」用としてであり、また6ポンド(2.5インチ/64 mm)山砲・軽野砲、9ポンド(3インチ/76 mm)騎馬砲兵砲、および12ポンド(3インチ/76 mm)野砲のみが製造された。

アームストロングは、この方式がより大型の砲に適しているとは考えていなかったが、上層部は20ポンド(3.75インチ/95 mm)野砲・艦載砲、40ポンド(4.75インチ/121 mm)艦載・要塞砲、110ポンド(7インチ/180 mm)重砲の製造を命じた。イギリス海軍はこれら3種類の砲を全て採用し、また40ポンド・110ポンド砲はニュージーランドでも採用された。

構造および装填方法

構造

ポーツマスHMS ウォーリア上のファイバーグラス製レプリカ。デッキ上には砲弾が置いてある
尾栓メカニズム
潤滑器が取り付けられた薬嚢

アームストロング砲は、従来のように全体を一度に鋳造するのではなく、いくつかの部品を組み合わせて作製されていた。砲身は「Aチューブ」(当初は錬鉄製、1863年からは低・中炭素鋼)と呼ばれる砲身内腔部をいくつかの錬鉄性のコイルで嵌め込んだ層成砲身で、コイルの圧力により強度を増加させていた[1]。また尾栓砲耳も別部品であった[2]。砲の施条は38口径長で1回転するように掘られていた。

鋳鉄製の砲弾は、ミニエー弾と類似の形状であり、薄い鉛で内腔径よりやや大きくなるようにコーティングされていた。この鉛部分が砲の施条に食い込み、砲弾に回転が与えられる。この方式はマーチン・フォン・ウォーレンドルフ英語版ジョヴァンニ・キャヴァーリイタリア語版ドイツ語版によって開発されたばかりだった。従来の前装滑腔砲に比べると、内腔と砲弾の隙間がないことにより、より少ない装薬量でも射程が伸び、砲弾の回転により砲撃精度を高めることができた。

薬嚢の前部には、ブリキのプレートで獣脂と亜麻仁油を挟み込んだ潤滑器が装着されていた。プレートの後ろには蜜蝋でコーティングしたフェルト束と厚紙があった。砲弾が発射されると潤滑器もその後を追うが、この際にプレートの隙間から潤滑油が搾り出され、フェルト束が砲弾から剥がれて内腔にこびりついた鉛を拭きとり、次弾の発射前に内腔が掃除されることになる[3]

革新的な機構は先端6インチの内腔径をややちいさく絞り込むもので、アームストロングが「グリップ」と呼び、20世紀の砲にも一般的に用いられている。これにより砲口を出る前に砲弾がより中心部に位置し、鉛コーティングがより剥がされる分砲弾の直径が小さくなり、飛翔特性が若干向上する。

アームストロング砲の尾栓は一種の垂直鎖栓を用い、前面に薬室との密着を確実にするための円錐形の銅製リングのプラグを有した。点火口(vent)も兼ねているため、vent-pieceと呼ばれた。

合わせて閉鎖をより完全なものにするため、中央に穴の開いた一種の螺旋式尾栓部を有し、射手が締め付けるようになっていた。

装填・発射手順

砲弾の装填・発射手順は以下のとおりである。

  1. 螺旋尾栓を回して緩める
  2. vent-pieceを持ち上げる
  3. 砲弾を螺旋式尾栓中央部の穴から砲身内に挿入し押しこむ
  4. 薬嚢を螺旋式尾栓中央部の穴から薬室に押しこむ
  5. 雷管チューブをvent-pieceに装着する(40ポンド及び110ポンド砲の場合のみ)
  6. vent-pieceを下げる
  7. 螺旋尾栓を絞めつけて、閉鎖を確実なものにする
  8. vent-piece上部の点火口(vent)に、引き綱のついた摩擦チューブを挿入する
  9. 砲手が引き綱を引っ張ると点火口内の火薬が発火し、これが装薬を爆発させ砲弾が発射される。

運用

1858年イギリス軍の制式砲に採用され、その特許は全てイギリス政府の物とされ輸出禁止品に指定されるなどイギリスが誇る新兵器として期待されていた。しかし、薩英戦争の時に戦闘に参加した21門が合計で365発を発射したところ28回も発射不能に陥り、旗艦ユーリアラスに搭載されていた1門が爆発するという事故が起こった。[要出典]その原因は装填の為に可動させる砲筒後部に巨大な膨張率を持つ火薬ガスの圧力がかかるため、まだ製造技術が未熟だった鉄(鋼ではなく錬鉄)製の尾栓が破裂しやすかったことにある。そのため信頼性は急速に失われ、イギリスでは注文がキャンセルされ生産は打ち切られて過渡期の兵器として消えていった。

廃棄されたアームストロング砲は輸出禁止が解除され、南北戦争中のアメリカへ輸出された。南北戦争が終わると幕末日本へ売却され、第二次長州征伐戊辰戦争で使用された。江戸幕府トーマス・グラバーを介して35門もの多数を発注したが、グラバーが引き渡しを拒絶したために幕府の手には届かなかった。

第二次長州征伐と戊辰戦争での戦果

慶応二年七月二十七日 赤坂口の戦いで、海岸線を進軍してきた福原和勝が率いる報国隊が砲隊を先頭にして攻撃を開始したが、熊本藩兵のアームストロング砲の砲撃に多大な損害を受け撃退され、報国隊の攻撃は頓挫した。

戊辰北越戦争で長岡軍がアームストロング砲で、榴散弾を発射して奇兵隊ら西軍の頭上で爆発させる戦術を用いて、多大な損害を与えた。

佐賀藩での製造の有無

日本では佐賀藩がこの砲の製造を試みたといわれるが、実際に製造した砲がアームストロング砲と同等のものだったかについては、戦時中の金属類回収令により佐賀藩製造とされるアームストロング砲が供出で失われたために検証が不可能となり議論が分かれている。これは、アームストロング砲の製造にはパドル炉、圧延機、加熱炉、蒸気ハンマーなどの大規模な設備が必須であり、当時のイギリスですら最新最高の設備を持った工場でしか生産できないような物だった。当時の佐賀藩がイギリスに匹敵するほどの設備を持っていたとは考えにくいためである。

精練方に務めていたアームストロング砲の製造に成功したと記した「からくり儀右衛門」こと田中久重の記録によると、鉄製の元込式の6ポンド砲である。また、福岡日日新聞社の北島磯舟によると、32本の施条が刻まれていたとされる。古写真も残されており砲身の構造こそ不明だが、元込め式であるのは写真で確認可能である。

種類

種類 口径
6ポンド軽野砲 2.5 インチ (64 mm)
9ポンド騎兵砲 3 インチ (76 mm)  
12ポンド野砲 3 インチ (76 mm)
20ポンド野砲 3.75 インチ (95 mm)
40ポンド攻城砲 3.75 インチ (95 mm)
110ポンド海軍砲 7 インチ (180 mm)
100トン砲 17.76インチ (450mm)

脚注・参考資料

  1. ^ Holleyは、鋼鉄製の中央チューブを錬鉄性のコイルで圧縮するダニエル・トレッドウェルDaniel Treadwellが最初にパテントを取ったとしている。アームストロングはチューブを錬鉄製としてこの特許を回避したが、この特許の本質は素材ではなく外部コイルによる締め付けにあるため、実際にはアームストロングの方法はこれと同一である『Holley, Treatise on Ordnance and Armour, 1865, pages 863–870』
  2. ^ Armstrong Rifled Breech Loading (RBL) 6-Pounder
  3. ^ Treatise on Ammunition 1877, pages 166–167

関連書籍

  • 司馬遼太郎『アームストロング砲』講談社文庫、1988年 ISBN 978-4061843295
  • 幕末軍事史研究会『武器と防具 幕末編』新紀元社、2008年。
  • 横井勝彦『大英帝国の「死の商人」』講談社〈講談社選書メチエ〉、1997年。

外部リンク