アーサー・ボイド・ハンコック2世

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アーサー・ボイド・ハンコック2世
生誕 1910年1月24日
アメリカ合衆国ケンタッキー州バーボン郡
死没 1972年9月14日(1972-09-14)(62歳)
アメリカ合衆国テネシー州ナッシュビル
墓地 ケンタッキー州パリス墓地
教育 セントマークス学校
→ウッドベリーフォレスト学校
プリンストン大学
職業 競走馬オーナーブリーダー
著名な実績 クレイボーンファーム
配偶者 ワデル・ウォーカー (1914 - 2005)
子供 息子:アーサー・ハンコック3世セス・ハンコック
娘:ナンシー・クレイ、ワデル・ウォーカー Waddell Walker
Arthur B. Hancock
Nancy Clay
受賞 アメリカ競馬殿堂 (2016)
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アーサー・ボイド・"ブル"・ハンコック2世Arthur B. "Bull" Hancock Jr., 1910年1月24日 - 1972年9月14日)は、アメリカ合衆国サラブレッドオーナーブリーダーケンタッキー州パリスクレイボーンファームの所有者で、特にナスルーラプリンスキロを輸入したことで知られる。ブルとは彼のあだ名で雄牛のように体が大きく(6フィート2インチ)、力も強かったことからである[1]

青年期

1910年1月24日の生まれで、父はクレイボーンファームの創業者アーサー・ボイド・ハンコックであった。ハンコックは、マサチューセッツ州のセントマークススクールとバージニア州のウッドベリーフォレストスクールの2つの学校で教育を受け、1933年にプリンストン大学を卒業[2]第二次世界大戦においてはアメリカ陸軍航空軍に従軍、少佐まで昇格した[3]

競馬

ハンコックは6歳のときから父親の手引きで競馬ビジネスを学び始め、馬小屋の掃除や空き厩舎の整備などをしていた[4]

1945年に父ハンコックシニアが体調を崩し、助けが必要となったので退役して牧場の仕事を行うようになり、1947年に父が脳卒中で倒れると完全にケンタッキー州パリス近郊にある2,873エーカーの牧場クレイボーンファームの支配権を引き継いだ[5]

ハンコックは特にヨーロッパからの種牡馬の輸入に専念、ウィリアム・ウッドワード・シニアとハリー・F・グッゲンハイムらと協力して、アイルランドからネアルコ産駒の種牡馬ナスルーラを購入、そのシンジケートを結成した。このナスルーラは大成功を収め、北米リーディングサイアーに4度輝き、生涯で98頭のステークス勝ち馬を出した[6]。ハンコックはまた、セクレタリアトの母父であるプリンスキロを輸入し、こちらは北米リーディングブルードメアサイアーに2度輝いている。このほか、ラウンドテーブルなどを繋養・管理していた[7]

クレイボーンファームはハンコックの管理下にある間に規模を拡大、約6,000エーカーに成長した。ハンコックはクレイボーンファーム名義で112頭のステークスの勝ち馬を生産し、フィップス家やウィリアム・ウッドワード・シニアらの外部顧問でもあった。クレイボーンは、この時期に毎年のようにチャンピオンホースを生産しており、名種牡馬ヌレイエフ凱旋門賞勝ち馬イヴァンジカのようなヨーロッパで名を上げた馬も生産している。特にモカシン、ナディール、ダブルドッグデア、バイユーらはクレイボーンの勝負服のもとで競走生活を送り、チャンピオンホースに選出されている。クレイボーンファームは1958年・1959年・1968年・1969年にアメリカ最優秀生産者に輝いた[8]。クレイボーンファームで生産されたが別生産者名義のものも多く、ケルソナシュアボールドルーラーラウンドテーブルシケイダバックパサーリヴァリッジなど32頭のチャンピオンホースもクレイボーンで出生したものであった[8]


ハンコックの特に気に入っていた馬にはシャムがおり、ハンコックは「我が偉大な馬」と呼んでいたが、シャムが2歳の頃にハンコック自身は亡くなっている[9]。ハンコックが没すると、繁殖用の資産を維持するためにすべての競走馬を売却しており、シャムもシグムンド・ソマーに売却されている[10]

また、ハンコックはジョッキークラブに選出された初期の幹事のひとりでもあった。このほかに、アメリカサラブレッドブリーダー協会の会長、アメリカサラブレッド所有者協会の副会長も務め、1961年にこれら2つの組織がサラブレッド・オーナー・アンド・ブリーダー協会に合併する際に重要な役割を果たした。彼はキーンランドの理事および管財人であり、チャーチルダウンズの理事、ケンタッキー競馬委員会のメンバー、グレイソン財団の理事、ケンタッキー・サラブレッド・ブリーダーズの創設メンバーおよび理事であり、アメリカ競馬評議会の設立にその役割を果たした[8]

1999年、『レーシング・ポスト』は、20世紀の競馬関係者100名のリストにおいて、ハンコックを12位に格付けした[11]

晩年

1972年8月、ハンコックはスコットランドにおいての狩猟中に病状を訴え、数週間後、テネシー州ナッシュビルヴァンダービルト大学医療センターで死亡、死因は膵臓癌であった[12]。彼はケンタッキー州のパリ墓地に埋葬された。彼の未亡人は、ヴァンダービルト大学医療センターに癌研究のためのA・B・ハンコック・ジュニア記念研究所を設立した[13]

レーシングジャーナリストのピーター・ウィレットは、「ブルは当時のサラブレッド業界で肉体的に言えば最大の男であり、プロとしての能力と彼の性格の優位性において、同時代の大多数よりも高くそびえ立っていた」と語っている[11]

2016年、アメリカ競馬名誉の殿堂博物館はハンコックを「ピラー・オブ・ザ・ターフ」のカテゴリで殿堂入りした[8]

参考文献

  1. ^ Raymond G. Woolfe JR. (2010). SECRETARIAT. Derrydale Press. p. 13. ISBN 978-1586670672 
  2. ^ The Kentucky Encyclopedia
  3. ^ Legacies of the Turf: A Century of Great Thoroughbred Breeders - Edward L. Bowen (2003) p. 252
  4. ^ Biggest Bull in The Market
  5. ^ Arthur “Bull” Hancock”. CLAIBORNE FARM. 2021年3月20日閲覧。
  6. ^ Diamond Farms
  7. ^ Claiborne Farm history
  8. ^ a b c d Woodward, Hancock to Racing Hall of Fame”. bloodhorse.com. 2016年8月12日閲覧。
  9. ^ Midsouth Horse Review
  10. ^ Los Angeles Times - May 2, 1993
  11. ^ a b Randall, John (1999年8月23日). “John Randall on the 100 makers of 20th-century racing (Part 4)”. The Racing Post. http://www.thefreelibrary.com/A+Century+Of+Racing%3a+Geniuses%2c+giants+and+grandees%3b+John+Randall+On...-a060185499 2013年4月20日閲覧。 
  12. ^ Daily News (Bowling Green, Kentucky) - September 15, 1972
  13. ^ Vanderbilt University Archived April 26, 2012, at the Wayback Machine.