第二次ハリコフ攻防戦
| 第二次ハリコフ攻防戦 | |
|---|---|
当時の東部戦線の状況 |
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| 戦争:第二次世界大戦(独ソ戦) | |
| 年月日:1942年5月12日 - 1942年5月28日 | |
| 場所:ハリコフ、ウクライナ | |
| 結果:ドイツ軍の圧勝 | |
| 交戦勢力 | |
| 指揮官 | |
| フェードア・フォン・ボック | セミョーン・チモシェンコ |
| 戦力 | |
| 歩兵 300,000 戦車 1,000 航空機 1,500 |
歩兵 640,000 戦車 1,200 航空機 1,000 |
| 損害 | |
| 戦死・戦傷・捕虜 20,000 | 戦死・戦傷・捕虜 277,190 |
第二次ハリコフ攻防戦(だいにじハリコフこうぼうせん)とは、1942年5月にウクライナ屈指の大都市ハリコフの周辺で行われた、ハリコフ奪還を目指すソ連軍と枢軸軍の戦いのこと。
ドイツのモスクワへの攻勢(タイフーン作戦)を防ぎ、大戦果に酔い、ドイツ軍に進撃の余力が無いと見るスターリンによって企図された攻勢の一つである。装備・熟練度とも痛手から立ち直っていないソ連軍が大敗、6月からのドイツ軍の南部戦線での攻勢(ブラウ作戦)で、ソ連軍の一方的敗走を招く原因となった。
目次 |
東部戦線南部の状況 [編集]
1941年11月時点での南部戦線は、ロストフ・ナ・ドヌでドイツ側が突出していた。ソ連はドン川に面し、カフカース方面に通じる要衝であるロストフに攻撃を加え、ドイツはタガンロクまで引き、ハリコフ・アルチョーモフスク・タガンロクに強固な陣地を敷いた。
これに対しアゾフ海へとドイツ軍を追い詰めるため、ソ連軍は1942年1月18日にハリコフ=アルチョーモフスク間からドニエプル川目指して進撃を開始した(バルヴェンコヴォ・ロゾヴァーヤ作戦)。
だが、この作戦はドイツ軍の反撃で突出部(イジュム突出部、バルヴェンコヴォ突出部とも言う)を作るに留まり、以後クリミア以外の前線は1942年5月までドン川以西で膠着した。突出部を作った事は、ソ連にとっての攻撃の好機でもあったが、ドイツにとっても包囲殲滅の好機でもあり、両者の思惑がぶつかることになった。
両軍の思惑 [編集]
ソ連軍の思惑 [編集]
現有戦力で南部全戦線での攻勢を起こすのは不可能と判断したソ連は、ハリコフ奪還に限定した作戦を行う事にした。
4月、主攻撃部隊がイジュム突出部から時計回りに進撃、副攻撃部隊がハリコフ北東のヴォルチンスクから反時計回りに進撃し、ハリコフを包囲・奪還する作戦が決定された。
ドイツ軍の思惑 [編集]
同時期、ドイツ側ではイジュム突出部の殲滅を目指した「フリデリクス作戦」が立案されていた。パウルスの第6軍が北から、クライストの第1装甲集団が南から、突出部の根元を締め上げて、カフカス・ヴォルガへの夏季攻勢へ繋げようとするものである。
戦いの経過 [編集]
ソ連軍の攻勢(5月12日~16日) [編集]
5月12日、副攻撃部隊がソ連第28軍を中心に、右翼の第21軍・左翼の第38軍がドネツ川を越え、ドイツ第6軍左翼に攻撃を開始し、この地点で攻勢の予定の無いドイツ軍は突破を許した。
同じく12日、突出部のソ連第9軍・第57軍が防御しつつ、主攻撃部隊ソ連第6軍がドイツ第6軍右翼へ攻撃を開始し、クラスノグラードに迫った。
だが、ドイツ軍の迅速な増援の展開と、ソ連の熟練不足のため、前進速度は1日数kmに過ぎず、ドイツ軍の反撃を許す事になった。
ドイツ軍の反撃・包囲(5月17日~28日) [編集]
前日のソ連の攻撃に対し増援部隊の手当てを終えたドイツ軍は、13日「フレデリクス作戦」を南翼において発動する事を決定し、クライストの第1装甲軍に、第3装甲軍団・第44軍団・第52軍団から成る増援を加え再編成「クライスト軍集団」に改組、17日にイジュム突出部への攻撃を開始した。同じく17日から、ソ連副攻撃部隊への反撃も開始された。
ソ連軍の指揮系統はここに来て破綻し、各部隊は個々に目の前の敵を防御するに終始し、連絡を取り合えないままに包囲されていった。
28日に包囲戦が終わった時、24万人が捕虜となり、大半の戦車はドネツ川を渡れず破壊・捕獲され、航空機の半数が失われ、何より攻勢を担った優秀な将校が多数戦死してしまっていた。
ソ連軍の敗因 [編集]
双方がこの作戦に投入を予定していた戦力は、兵士数・戦車数・航空機数どれもそれ程差は無かった。
ソ連軍の優位は、戦車戦力において、(前年と比して)軽戦車は減りKV-1重戦車・T-34中戦車の割合が増し、英国から供与されたマチルダII歩兵戦車・バレンタイン歩兵戦車、米国からのM3中戦車リーが加わり、戦車の質がドイツの上を行く点にあった。
対して、ドイツ軍の優位は、豊富な戦闘経験に裏打ちされた自動車化による歩兵の機動力・行き届いた連絡通信網により、単なる数量比較以上の戦闘力が出せる点にあった。
さらに重大な事は、まだソ連はドイツの戦車戦術を吸収し切っていなかったため、(前年の損害により機械化軍団は解体され、師団単位で編成するには数量不足であったとは言え)歩兵の中に旅団単位で配置した事にある。
ただ、この敗戦の戦訓は生かされ、やがてより良く製造され・編成され・訓練された機械化部隊がドイツを圧倒していく契機にはなったと言える。
関連項目 [編集]