理科離れ

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理科離れ(りかばなれ)とは、理科に対する生徒児童の興味・関心が低くなったり、授業における理解力が低下したり、日常生活において重要と思われる基礎的な科学知識を持たない人々が増えていたりすると言われる一連の議論である。科学的思考力や計算力の低下により、特に高等教育において授業の内容を理解できない生徒が増え、専門的知識・技能を有する人材の育成が難しくなることが問題として指摘されている[誰?]

一般的に科学技術が発展している国ほど市民の科学的思考力が低下しているとの指摘もある[誰?]。これは科学技術が高度になり複雑化するにつれてブラックボックス化し理解しにくくなっているという側面もある。ただ、日本では、一般市民の科学リテラシーが先進諸国と比較しても極めて低いことが指摘されている[誰?]

科学教育に関する一部の研究グループ[誰?]は、文部科学省が理科の学習内容を大幅に削減し、科学教育の質を低下させていることに対する揶揄を込めて理科離しと表現することがある。 また、高校の文理選択時や大学進学時などをふまえ、理系離れ工学部離れといった言葉もある[1]

目次

[編集] 現状

現状では、理科離れの明確な定義は存在しない。それを指摘する根拠の一つとして、国際教育到達度評価学会が実施した「国際数学・理科教育調査」により、日本の生徒は成績が良いにもかかわらず、理科が面白いと思う生徒が極めて少ないことが挙げられる。「科学技術と社会に関する世論調査」でも、国民の科学技術に対する関心は先進諸国と比較して極めて低いとされる。このような状況を表現する一つの用語として、理科離れが使われるようになったと考えられる。

理科離れに関する研究は、専門的な研究対象としても位置付けられている。研究者に対する研究助成金として最も重要と考えられている、文部科学省科学研究費補助金では、時限付き分科細目の科学高等教育の分野において数学嫌い理科離れの用語が使われており、大学教育の質の維持が著しく困難になっていると述べられている。また、文部科学省の科学技術・理科大好きプランでは科学技術離れの用語も使われている。 現在の日本において、理科離れと無縁な理系職業と言えば、医学部(医師)ぐらいなものである。これは、今も昔も医学部医学科の倍率が高い(難関)ということからわかる。

[編集] 要因

理科離れに関係がある要因として考えられているものは、大まかに以下のように分類できる。

[編集] 子供をめぐる状況

[編集] 学習指導要領の変遷と理科・科学技術教育

ゆとり教育の推進により学校の授業時間数が削減され、学習指導要領が定める教科書の内容も、従来と比較して内容がじりじりと減らされてきた。そのため、多くの観察・実験・資料・データなどから原理と法則を見つけ出し、じっくりと理解を深めるような授業を構成しづらくなり、テキスト上の暗記が重視される傾向にならざるを得ない。言い換えると、学習事項の削減は暗記事項を減らすことを目的にしていたにもかかわらず、逆に与えられた知識がぶつ切り化し、児童・生徒に多様な事象を相互に関連付けて体系付けることを困難にしてしまった。こうして学習事項の削減は体験による認識を欠き、むしろ無味乾燥な暗記を増やす結果を招いた。その結果、理科の楽しさや本質が伝えられにくくなっている。但し、こうした暗記偏重・知識偏重の傾向はゆとり教育推進以前からあり、それを是正するためにむしろゆとり教育が推進された経緯も否定できない。

またその一方では、旧来の学習指導で無味乾燥な暗記が偏重され過ぎた結果、「テストが過ぎれば忘れてしまう」程度の知識が重視されてしまった反省から、体験や観察を重視するカリキュラムへの移行が見られる。しかし依然として個人の内部において論理体系を育んだり、その原理を探求するといった、理科=科学の根底にある探求が等閑になっている傾向も見受けられる。

実験や観察の結果を考察し、そこから結論や真理を導き出す過程が欠落した結果、現象のみの知識だけを持ち、その理由に対する理解に及んでいないケースが見られる。2004年4月には、小学生の4割が天動説的な説明の文章に「正しい」と回答しているといった報告も提出され、同問題をより深刻なものと受け止める向きも多い。然し1989年1998年に発表された学習指導要領では、「地球が動いている」ことを理科ではっきり学習するのは中学校なので、天動説を信じている小学生が多いことは必ずしも驚くことでは無い。この背景には、児童・生徒たちによる日常理解や抽象概念の認識範囲の拡大等、発達心理学的な要素を取り入れる必要があるからである。

この他に日本の理科教育では、例えば高等学校のカリキュラムにおいて地学を履修しないものが一般的になりつつある。これは大学での専攻の決定ばかりでなく、大学入試の受験対策で化学や物理を優先して地学を敬遠したり、高等学校で地学の授業がそもそも行われていなかったりすること等が原因として考えられる。

一方、特に大学レベルの教育関係者からは、下記にあるような低待遇が見られる以上、理科好きにさせたところで実際に志願するはずがなく、ましてそれを承知で勧誘するなら無責任である、という意見すら見られる。

また、中学校の技術家庭科・技術分野の履修時間数が大幅に削減されていることも少なからぬ影響を及ぼしていると考えられる。技術的教養(技術リテラシー;技術に関する知識、経験、態度、所作など)は、就労や職業選択の幅を広げるだけでなく、積極的な社会参加に不可欠な要素であり、このことは、世界人権宣言児童の権利に関する条約女性差別撤廃条約技術教育および職業教育に関する条約などで繰り返し強調されている。しかし、日本の普通教育において行なわれる技術教育は、下の表にまとめたように、国際的な水準からみて著しく貧弱であるばかりでなく、その隔たりがさらに拡大しようとしている。[2]

学技術立国を標榜しながら小学校と普通高等学校には技術科がなく、中学校の技術科はIT教育のためにほとんど半減され、技術教育は実質的に普通教育から閉め出されつつある。英語や数学の教育で一旦授業について行けなくなるとその回復は極めて困難といわれているが、技術については大部分の生徒がこの状態におかれており、しかもその事実が国民一般はもとより識者にも認識されていない状態である。勿論IT教育は極めて重要であるが、これを技術教育の一部と規定するところに本質的な認識の誤りがある。ITの教育現場での使用は新しい教育技術の利用であり、図書館の使い方の教育、発表の仕方の教育、手紙の書き方、電話のかけ方の指導等と本質的に異なるものでなく、技術の教育とは異質のものである。[3]

日本と比較した8か国における一般技術教育教科の実施状況
学年 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 教科名等
イギリス テクノロジー科
フランス テクノロジー科他
スウェーデン スロイド科と技術科
アメリカ 州ごとに多様
ドイツ 州ごとに多様
ロシア テクノロジー科
台湾 生活テクノロジー科
韓国 実科、技術・産業科
日本 技術・家庭科
凡例 ■必修、□選択必修、●選択、○他教科と統合して実施

(出典:『技術教育のカリキュラムの改善に関する研究』(2001年3月、国立教育政策研究所))

中学技術家庭科・技術分野の履修時間数の変遷
領域 1958年 1969年 1977年 1989年 1998年
製図 55 45 - - -
木材加工 65 58 約58 35 木材・金属
金属加工 50 58 約46 約12 合わせて35
機械 45 59 約38 約12 若干(選択)
電気 45 59 約64 約20 若干(選択)
栽培 20 35 約38 約12 若干(選択)
情報基礎 - - - 約12 35
合計(男子) 315 315 245 105 88
合計(女子) 0 0 一部 105 88

[編集] 詰め込み教育、受験競争

限られた問題を短時間で正確に解くための、詰め込み教育や受験競争センター試験突破がその最たるものである)によって、理科の本来の目的の一つである理論的にじっくりと考察する態度が軽視されるようになった。また、理科が好きな生徒でも、受験競争が優先され理科に関する趣味を楽しむゆとりが少なくなっている。

教科書の編成でも、欧米の理科教科書は日本で言うならば学習百科事典に相当するボリュームのものを学校から生徒に貸与し、生徒はここから自分の関心の深い分野や切り口を探索できるようになっている。それに対して日本の教科書ではあらかじめ精選したメインストリームを設定し、これに沿った構図を無駄なくシステマティックに教授する構造となっている。確かに科学の論理的体系を整理した形で身につける上で日本の教科書は優れている面があるが、研究が進展しつつあるまだ十分体系化されていない背景部分が大幅に排除されており、生徒の多様な関心をすくい取る力に乏しいのみならず、現状の学説において「完成されたとされる」体系を受容するだけで、科学に対する能動的態度を損なう要素も指摘できる。

[編集] 自然に触れる機会の減少

子供たちが自然に触れる機会が減少し、生物の観察や飼育などの体験を行う機会が減少したことにより、不思議だと思ったり、科学的な価値観を知ることで科学に興味を持つ子供が少なくなっているとされる。しかし仮にこれが正しかったとしても観察能力が低下したという事であり、理科離れの引き金である好き嫌いという感情とは別であるという見方もある。

また、「理科が嫌いになる」という意味での理科離れの傾向は、都市部と農村部で比較してもそれほど大きな差は無く、この問題は自然環境の有無よりも子供を取り巻く状況に依存する要素が大きいと考えられる。農村部での子供の自然体験の減少には、農村部での高齢化に伴う児童数の減少で年長の子供から年少の子供への自然の中での遊び方の伝承が途切れ、これによって子供が外で遊ばなくなったことも指摘されている。

また、かつては県ごとに組織されたローカルな自然史研究会・生物学会・地学会の類に加入し地域の自然に基盤を置く教材研究に努める理科教員が多かったが、近年は若い教員の加入が著しく乏しくなっており校務分掌の多忙化もあってこうした活動が低調になってきている。そのため、地域の自然に関して豊富な知識を持つ教員の数も減少してきており、児童・生徒への適切な助言をこなせない状況が生まれてきている。

[編集] 子供の好奇心・趣味・遊び・手伝いの変化

おおよそ1960年代までの日本では、ラジオ少年(→工作少年)という言葉に代表されるような、電気製品の分解や修理、組み立てなどの電子工作を楽しむ子供が多かった。これは完成品が高いものでも、半完成品として販売されていたり、作成方法が公開されていることにより、部品を集めることによって作ることが可能になっていた。1970年代までは、それら子供向けの半田ごてを利用する、ラジオや無線送信機などの工作キットも多く発売された。実際問題として他の娯楽も少ない事から、比較的安価なそれらのキットを利用して、ラジオ放送を楽しむ子供らも少なくはなかった。アマチュア無線の存在もこの傾向に影響を与えていたと考えられる。

また、電気関係以外にも、物を作ったり解体したりする趣味や遊びが多数存在し、そのような子供に対する尊敬の念もあった。また親たちも家庭で使われる道具類を自分で修理したり自ら作成してしまうことも多く、それを子供に手伝わせる機会も頻繁だった。そこで得た興味や技術を糧にして、大人になってからも専門家として科学技術を支える重要な役割を務めていることが多い。

しかし、1980年代中頃から1990年代にかけてテレビゲームが普及したことや、家庭で用いられる電気製品が高度化して、分解や修理を行う必要性が無くなった(あるいは出来なくなった)事もあり、自然観察や工作を楽しむ子供は減った。また、さまざまな製品の値段が大量生産によって低価格化したことで、家庭で使う道具類を自分で修理しなくなり、道具を家庭で作るという行為に至ってはそれ以前に衰退していた。このことが、理科離れの原因の一つと主張する論者も散見される。但し、その一方でパソコンの普及などでソフトウェアを自作する環境が出来、現在の電気製品の多くが往々にしてソフトウェアによって性能を実現していることを考慮すると、この指摘が必ずしも当たらないという見方もある。

同じく1980年から1990年代以降には、子供向けの文化媒体(主に娯楽媒体)市場が拡大した。これによりプラモデルミニ四駆の人気などのキャラクター商品が台頭し、電子工作キットの地位が相対的に下がった。また、子供向け娯楽媒体が一日の生活において一定の時間を占めるようになったため、子供らが日常の生活や手伝いを通じて、家庭内に普遍的に存在する様々な現象に関心を抱く機会が減っている事を挙げる向きもある。

またこの過程に関連して、読書時間も年々減少傾向にあると報告されている。2004年の調査では高校生でも、学校カリキュラム以外では一日の読書時間がゼロという生徒が4割を占めるなど、知的好奇心が低下したと考えられる傾向が見られる。この傾向は大学生にも顕著で、2000年代に前後して、大学受験の要求する学力レベルが中堅層から低下している中で、新書などの書籍を全く読まない、もしくは読む能力が無いという学生も多いと嘆く大学教授も存在する(詳細は「活字離れ」を参照)。このためか、知的好奇心をもって物事に取り組む層とそうでない層の能力の二極化が顕著となりつつあり、意思疎通が図りにくいと指摘されることもある。

[編集] 社会人をめぐる状況

[編集] 科学ジャーナリズムの貧弱さ

社会人が広範な科学知識を現実の科学の発展に即して得る手段としての科学ジャーナリズムも、日本では基盤が貧弱である。高度経済成長期にホワイトカラー向けの、経済バブル期にもっと広範な大衆向けの科学雑誌の発展がありはしたが、その多くがバブル崩壊後に廃刊に追い込まれている。科学に対する興味が薄れることによって売上げが減少し、人目に触れる機会が減少することで、さらに科学に対する興味が薄れるという悪循環を生じている。現在は一般向けの総合科学雑誌は岩波書店の「科学」、日本経済新聞社の「日経サイエンス」、ニュートン・プレスの「Newton」程度であり、前2誌もむしろ研究者技術者向けの比較的高価な専門誌と認識され、ホワイトカラー層においてすら、難しいメディアと認識されているのが現状である。「日経サイエンス」は、アメリカの"SCIENTIFIC AMERICAN"誌の日本版であり、英語版本誌及び他国語版の多くは、どちらかというとホワイトカラー層にターゲットを置いているものの、安価で大量に発行されている大衆雑誌の扱いとなっている。

こうしたことから、日本における大衆特に高等教育を受けているホワイトカラー層の科学リテラシーの低さは深刻なものがある。そのような中で、1923年に創刊されて現在も発刊中の、誠文堂新光社の「子供の科学」は、「子供の」とは言いながら、科学の原理や身近な科学現象から、最新の科学研究の動向までを、大人(一般市民)にも啓蒙してきたことは、特筆すべきである。

ある程度体系だった科学リテラシーを持つには、各々の教育水準や幼少からの家庭環境も影響しているだろう。これに類する見方は教育社会学で研究されてきている。どのような過程であれ、問題解決に至るには、これらの見方も取り入れる必要があろう。

[編集] 科学技術に対するメディアの扱い

戦後の復興期から、高度経済成長、公害問題、原発報道、公害報道の流れで、報道の科学技術に対する姿勢は親和からアンチの方向に傾向している。

上記のような科学専門メディアの衰退の一方で原子力事故感染症をめぐる問題など、現在の科学技術における失敗例や未解決の問題は数多く存在する。こうした問題は、科学技術を用いることによってしか解決が困難なものが多いにもかかわらず、一部には、それらの危険性ばかりを強調し科学技術そのものに対する不信感を持たせるような報道や世間の論調がある。また、科学技術に関わる科学者や技術者に人格的欠陥があるようなイメージを与え不当に貶めるような論調も少なくなく、逆に、科学者や技術者が人格的に賞賛すべき人物であると、極端に持ち上げることもある。これも逆の意味で、彼らに対するメディアの扱いに疑問を持つ必要がある(田中耕一を参照)。

これは報道側に科学に関する基礎的・社会的知見を欠いた文科系出身者が多いためと指摘する者がある。その一方で、マスコミやジャーナリズムに固有の批判的性質を大なり小なり考慮すると、そのように帰結するのは短絡的だという見方もある。

また、更にマスメディアが理系と文系の待遇の違いや理工系離れについてかなり無関心を装っているのも問題である。2010年には6月27日TBS系特番「池上彰が日本の危機を緊急ニュース解説! 号外!池上タイムズ」で日本の工学部志願者が10年前と比較して半減し、また日本企業における技術者の冷遇に辟易した技術者が韓国企業にヘッドハンティングされる状況が放送されたが、全体のニュース量からするとまだまだ少ない。

そのため中学校や高校で理科が得意であっても、大学で人文科学社会科学系の文科系学部や医学部薬学部等の医療系学部に進学する生徒も少なくない。大学進学に当たって、実験や演習・レポートなどで学生生活を拘束されがちな理工系を敬遠し、文科系学部に進学するという傾向も目立った。

[編集] 社会の指導的役割立場にある者の、科学的知見の薄さ

これらの現象には次のような背景が指摘されている。欧米先進国のみならず、ほとんどのアジア・アフリカ諸国では、高学歴者とは大学院の修士課程や博士課程の修了者を意味し、大学院修了者が政府機関や企業の指導者層として数多く登用されている。しかし、日本ではこうした社会的地位に登用されるのはブランド大学の学士課程を修了した者である。現状では(専攻分野を問わず)大学院修了よりも学部卒のほうが圧倒的に人数が多く、基礎科学分野や科学技術分野の高度な訓練を受けた者は社会の指導的立場には立ちにくい構造になっている。したがって、科学技術的な観点が政策決定や企業の意志決定に反映されるには、一定の障害やジレンマが生じると考えられる。これは近年のSTS(科学技術社会論)研究により論ぜられるべき点だろう。また、日本の銀行の融資システム上研究者によるベンチャー起業が困難であり、大学や既存の企業のサラリーマン技術者としてしか自己の有する技術によるビジネスチャンスを得られないという問題もある。

先進国の中でも欧米と比べてシンクタンクの層の薄さ、社会的役割の低さ、単に官公庁からの天下りや、大企業、金融機関の雇用確保機関に成り下がっている、などの諸問題も背景にある。

[編集] 対策

理科離れをなくす・科学技術への興味を持たせるため、などの目的で、各地で科学実験教室や講演などが多数開催されている(アマチュア無線フェスティバルにおける「電気の散歩道」、国際宇宙ステーション乗員との交信に挑む「ARISSスクールコンタクト」など)。また、授業の中で実験や実習を取り入れる動きも盛んである。2004年に、科学技術・学術審議会人材委員会は、修士号以上の学位を持つ教師(いわゆる教育職員免許法上の専修免許状の取得者)を増やすなどを盛り込んだ提言を公表した。また、各種の助成金を設けたり、科学技術を一般の市民に分かりやすく説明するための専門職を設置するなど、政策としての対応も見られる。これらは一つの対策として有効な方法だが、あくまで対症療法的な対策であり、子供や教師を取り巻く社会環境の変化を改善することが最も重要とする意見がある。

また、子供に理科への興味を持たせることには注目が集まっているものの、社会人をめぐる状況、特に諸外国と比べての理系の社会的地位の相対的な低さなどについての議論は、まだ十分ではない。一般市民向けのイベントなどを開催しても、低学年の子供ばかりが集まり、青年層の参加がほとんど無いようなケースも見られる。そもそも、こうした取り組みが効果があるのか疑問であるという批判もあり、大槻義彦は自著で「科学館やイベントで一時的に科学に対する関心や面白さを喚起しても、持続できずに結果として関心が失せてしまう」と理科イベントや科学館などによる取り組みを否定している[4]。さまざまな理科離れ対策が1990年代から活発になっており、それらに参加した子供達は高等教育を受けたり社会で働いたりする世代に成長した。しかし、理科離れ対策がその世代に与えた影響について、十分な調査・分析が行われた例は少ないので、今後の研究の進展が待たれている。

理科離れの問題は、優秀な生徒に特別な教育カリキュラムを提供するエリート教育としばしば混同されることがある。例えば、飛び入学が理科に優れた生徒の選抜を目的とすることから始まったことから、両者が混同される一因ともなっている。しかし、理科離れは一部の特別な生徒ではなく、国民全体による知の問題とも解釈できるため、本来は同等に議論すべき問題ではない。理科離れ対策の本質は、学校教師だけに一方的に責任を押し付けて解決する問題ではないというところにあり、社会全体の知的水準の向上、高等教育や知識人のあり方など、非常に広範な観点から見直すことが求められる。

[編集] 理科離れによって派生する社会的問題

理科離れによって、初歩的な統計や生物の知識を知っていればすぐにその無意味さが分かるデータでもそれが無意味であることに気が付かないことでそれらを利用して無意味なデータを科学的に立証されたことであると信じ込みやすくなる。

大衆が悪徳商法カルト教団などの疑似科学に踊らされやすいのは、理科離れに直接関係があるわけではなく社会学的な考察を要する。

政策を立案する政府機関で指導的立場にあるスタッフに、高等教育機関にて理科系の学問を専攻した者が少ないという現状が指摘されている。これはつまり、日本の政府機関は厚生労働省など一部の官庁を除いて科学リテラシー能力が低く、科学・技術的な視点を必要とする問題への適切な対応や合理的な政策立案に差障りが生じているという見方である。政策立案スタッフが必ずしも理科系の学問を専攻する必要はないかもしれない。しかし、政策科学的な視点からも、また国家を取り巻く諸争点や利害を考慮しても、専攻の差異に関係なく一定の科学リテラシー能力を養う必要があると考えられる。理科離れは、特に大衆化した大学での一般教育やアカデミズム復権を取り巻く問題や、学際的な視点、ひいては知と知識人の社会的なあり方を巡る問題とも関わっていくだろう。

また、技術で成り立ってきた日本にとっては、理系離れによる技術スタッフの減少や技術力の低下は、将来的に死活問題となりうる。


[編集] 脚注

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  1. ^ 問題は理系離れではなく、電気系離れということ 日経エレクトロニクス
  2. ^ 『技術教育のカリキュラムの改善に関する研究』(2001年3月、国立教育政策研究所)
  3. ^ 技術リテラシーと市民教育 - 社団法人 日本工学アカデミー
  4. ^ 大槻義彦著『子供は理系にせよ!』。

[編集] 関連文献

[編集] 関連項目

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