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'''トウショウファルコ'''([[1986年]][[5月16日]] - [[2005年]][[10月21日]])とは[[日本]]の[[競走馬]]、[[誘導馬]]である。
'''トウショウファルコ'''とは[[日本]]の[[競走馬]]、[[誘導馬]]である。競走馬時代に[[重賞]]競走で2勝。三白流星<ref>顔に白斑があり、三肢の脚先が白いこと。</ref>・[[栗毛|尾花栗毛]]という派手な馬体から人気を集め、その引退後は[[東京競馬場]]で誘導馬を勤めた。ニックネームは「走る[[ベルサイユのばら|ベルばら]]」。


1989年に[[中央競馬]]でデビューし、1992年1月に[[中山金杯|日刊スポーツ賞金杯]]と[[アメリカジョッキークラブカップ]]に優勝した。その引退後は[[東京競馬場]]で[[誘導馬]]となり、1995年6月から1999年11月まで務めた。[[栗毛]]の馬体に金色の尾とたてがみを持つ「[[栗毛|尾花栗毛]]」の特徴から、競走馬、誘導馬双方の時代を通じてファンからの人気を集めた。
※[[馬齢]]は当時の表記([[数え年]])とする。

== 馬名の意味 ==
「トウショウ」は、馬主の[[冠名]]。「ファルコ」は、[[漫画]]『[[北斗の拳]]』の登場人物である「金色のファルコ」こと[[ファルコ (北斗の拳)|ファルコ]]将軍に由来する。なお、同時期には同漫画の人物から命名された「トウショウヒューイ」「トウショウジュウザ」「ハシノケンシロウ」などもいた。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 現役時 ===
=== デビューまで ===
1986年、[[北海道]][[静内町]]の[[トウショウ牧場|藤正牧場]]に生まれる。父は競走馬時代に長距離の[[八大競走]]で3勝を挙げた[[グリーングラス]]。母カメリアトウショウは不出走馬だが、競走馬時代にグリーングラスのライバルだった[[トウショウボーイ]]を生んだ[[ソシアルバターフライ]]系の出身馬だった。ソシアルバターフライ系はスピード豊かな馬を生み出す系統として知られていたが、牧場では大競走を勝つスタミナを求めて長距離型の種牡馬との配合を試みており、本馬もそうしたなかで生まれた1頭であった<ref name="falco">『週刊100名馬vol.15 トウショウファルコ』pp.6-7</ref>。しかし幼駒の頃から後躯の踏ん張りがきかないという欠点を持ち、一時は競走馬としての将来を危ぶまれたほどであった<ref name="falco" />。また気候により蹄が割れてしまう裂蹄の症状も抱えていた<ref name="falco" />。
デビューは[[1989年]][[2月4日]]の新馬戦で、6着。続く2戦目初勝利を挙げる。


競走年齢の3歳に達した1988年3月末、[[茨城県]][[美浦トレーニングセンター]]の新関力[[厩舎]]に入る。競走名は、馬主の[[冠名]]「トウショウ」に、漫画『[[北斗の拳]]』の登場人物「[[ファルコ (北斗の拳)|金色のファルコ]]」に由来した「ファルコ」を加えたものだった<ref name="falco2">『週刊100名馬vol.15 トウショウファルコ』p.11</ref>。
容姿の優美さもあって人気が先行していたものの、[[裂蹄]]を持病としていたこともあり、4〜5歳時は[[日本の競馬の競走体系#競走条件区分|条件戦]]で4勝を挙げるに留まる。


=== 競走馬時代 ===
ようやく頭角を現すのが6歳の夏で、[[重賞]]初出走となった[[七夕賞]]において3着となった後、秋の東京スポーツ杯でオープン特別初勝利を挙げた。その後[[アルゼンチン共和国杯]]9着を経てフェアウェルステークス優勝と遅咲きの活躍を見せ始める。
4歳となっていた1989年2月4日、[[小倉競馬場|小倉開催]]で競走馬としてデビュー。初戦の6着を経て、2戦目に初勝利を挙げた<ref name="falco2" />。しかし以後は後躯の欠点もあり順調に勝ち上がれず、しばらく[[日本の競馬の競走体系#競走条件区分|条件馬]]として過ごした。5歳となった1990年初頭には平地競走に見切りを付けて[[障害競走]]への転向が検討され、同期馬のトウショウクルーゾと共に[[栃木県]]の障害馬育成施設に送られた<ref name="falco" />。クルーゾは同年4月に障害入りしたが、ファルコには適当な競走がなかったことから引き続き平地で出走を続けた<ref name="falco" />。すると障害練習を行ったことにより後躯が強化されて成績が安定し、翌1991年7月には格上挑戦した重賞・[[七夕賞]]で3着と好走。そして10月に出走したオープン競走・東京スポーツ杯で通算5勝目を挙げ、オープンクラスに昇格した<ref name="falco" />。


続く[[アルゼンチン共和国杯]]では9着と敗れたものの、年末のフェアウェルステークスに勝利。翌1992年初頭には[[中山金杯|日刊スポーツ賞金杯]]に出走した。年初開催の新記録となる13万6695人という観衆が集ったなかで単勝6番人気の評価だったが、騎手を務めた[[柴田政人]]は一気の加速ができないことを見越して最終コーナー先頭という積極策をとり、そのままゴールまで押し切ってトウショウファルコは29戦目での重賞初勝利を挙げた<ref name="yushun1992">『優駿』1992年3月号、p.144</ref>。走破タイム1分59秒6はコースレコードから0秒1差という好記録だった<ref name="falco" />。この頃には後躯の弱さや裂蹄の不安もなくなっており、強い調教を掛けられるようになっていた<ref>『優駿』1992年3月号、p.152</ref>。3週間後に出走した[[アメリカジョッキークラブカップ]]では[[脚質#逃げ|逃げ]]を打って前半1000メートルを62秒というスローペースに持ちこみ、逃げ切りでの重賞2連勝を遂げた<ref name="yushun1992" />。これはグリーングラスとの同一競走父子制覇ともなった<ref name="yushun1992" />。柴田政人は「金杯の時は半信半疑だったけど、自分が考えた以上に力を付けている。どこまで強くなるのか興味を持っています」と語った<ref name="yushun1992" />。
7歳時は、年明け緒戦の[[中山金杯|金杯(東)]]で念願の重賞初勝利を挙げると、続く[[アメリカジョッキークラブカップ]]では、前年の[[宝塚記念]]優勝馬[[メジロライアン]]を下して連勝。この勝利は父・[[グリーングラス]]との父子制覇でもあった。これにより、トウショウファルコは一躍[[天皇賞|天皇賞(春)]]に向けての有力候補と注目を集めた。


名実共に[[天皇賞#天皇賞(春)|天皇賞(春)]]に向けた注目馬の1頭となったが、同競走への前哨戦とする予定だった[[日経賞]]直前に蹄球炎を発症し、休養を余儀なくされた<ref name="falco2" />。11月に[[天皇賞#天皇賞(秋)|天皇賞(秋)]]で復帰するも15着と大敗。その後はアルゼンチン共和国杯に向けて調整されていたが、右前脚を骨折し再度休養に入った<ref name="falco2" />。以後復帰に向けて療養が続けられていたが、1993年8月に右前脚を再度骨折し、これをもって引退が発表された<ref name="falco2" />。
しかし、これからという時期に持病の裂蹄が悪化、長期の休養を余儀なくされる。同年の天皇賞(秋)で復帰するも15着と奮わず、これを最後に競走馬を引退した。


=== 引退後 ===
=== 誘導馬時代 - 引退後 ===
ファンの間では「グリーングラスの後継種牡馬に」との声もあったものの、強い要望を受けて東京競馬場で誘導馬となり<ref>{{Cite web |url=http://tosho.cocolog-nifty.com/news/2005/10/post_4fa5.html |title=お知らせ |author= |publisher=トウショウ牧場ニュース |accessdate=2014年11月5日 |date=2005-10-24}}</ref>、訓練を経て1995年6月より供用された<ref name="falco2" />。競走馬時代から女性ファンを中心にパドックでの声援やファンレターを数多く受けとる存在だったが<ref name="falco5">『週刊100名馬vol.15 トウショウファルコ』p.33</ref>、誘導馬となってからも同様の事象が続いた<ref>『季刊名馬』1996年春号、p.20</ref>。柴田政人は「金色のたてがみをなびかせて走っている姿は、自分が乗っていてもきれいだな、と思ったほどだから、ファンにとってはたまらなかったんでしょうね。それだけトウショウファルコの姿はファンを惹きつけるほど魅力的だったのでしょう」と評している<ref name="falco5" />。1999年11月7日の開催をもって誘導馬生活からも退き、当日の昼休みには「お別れセレモニー」が行われた<ref name="falco2" />。
引退当初は父:グリーングラスの血統を残すべく種牡馬入りも検討されたが、繋養先に恵まれなかったため断念。しかしその美しい肢体から[[東京競馬場]]の誘導馬に選ばれ、自身が立てなかった大舞台の先導という新たな馬生を、[[1993年]]からの6年間勤め上げた。


その後は[[神奈川県]][[横浜市]]の[[馬の博物館]]に展示される様々な馬種のうち[[サラブレッド]]の代表として繋養され、同博物館の「乗馬デー」では一般客の体験乗馬役も担った<ref name="falco4">『週刊100名馬vol.15 トウショウファルコ』pp.8-9</ref>。
ここでもその容姿ゆえ目立つ存在で人気が高く、同時期に誘導馬を務めた[[メジロファントム]]、[[ロンスパーク]]と共に東京競馬場の名物となった。


[[2005年]][[10月21日]]に[[老衰]]のため19歳で死亡<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20051025014217/http://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2005/10/23/11.html |title=ファルコ老衰で死亡 |author= |publisher=スポーツニッポン |accessdate=2014年11月5日 |date=2005-10-23}}</ref>。10月27日には馬の博物館がある根岸競馬記念公苑にて、お別れの会が開かれた。同所には「トウショウファルコ号ここに眠る」と刻まれた追悼石碑が設けられている。
誘導馬を引退した後は[[横浜市]]の[[馬の博物館|根岸競馬記念公苑]]に移送され、展示馬として繋養され、また一般公開された。こちらでも現役時代を偲ぶファンが、その姿を見に訪れた。

[[2005年]][[10月21日]]に[[老衰]]<ref>老衰と報道したマスコミは一社のみ。死亡を発表したJRAのサイト(2005年9月22日に亡くなった[[メジロラモーヌ]]の死因は「老衰」と記載されていた)やお別れの会当日でも一切死亡原因は触れられていなかった。</ref>で死亡。10月27日には同公苑根岸ポニーセンターにて、お別れの会が開かれた。同所には「トウショウファルコ号ここに眠る」と刻まれた追悼石碑が設けられている。


== 馬齢別競走成績 ==
== 馬齢別競走成績 ==
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主な近親については[[ソシアルバターフライ]]を参照のこと。
[[ファミリーライン|母系]]は父グリーングラスと共に「[[TTG]]」と呼ばれ、ライバル関係にあった[[トウショウボーイ]]と同じソシアルバターフライ系に属する。近親にはトウショウボーイをはじめ、それぞれ重賞4勝を挙げた[[エイティトウショウ]]やトウショウレオなど多くの活躍馬がいる。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*『[[優駿]]』1992年3月号(日本中央競馬会)
*『季刊名馬』1996年春号(緑書房)
**北野あづさ「誘導馬の活躍 トウショウファルコ」
*『週刊100名馬 Vol.15トウショウファルコ』(産経新聞社、2001年)
**谷川善久「丘の上の幸福な日々」
**「データで見るトウショウファルコ」
**鈴木学「柴田政人調教師 記録より記憶」


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2014年11月5日 (水) 10:00時点における版

トウショウファルコ
品種 サラブレッド
性別
毛色 尾花栗毛
白斑 三白流星
生誕 1986年5月16日
死没 2005年10月21日(19歳没)
グリーングラス
カメリアトウショウ
生国 日本の旗 日本北海道静内町
生産者 藤正牧場
馬主 トウショウ産業(株)
調教師 新関力美浦
厩務員 多羽本博
競走成績
生涯成績 31戦8勝
獲得賞金 2億2797万0000円
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トウショウファルコ1986年5月16日 - 2005年10月21日)とは日本競走馬誘導馬である。

1989年に中央競馬でデビューし、1992年1月に日刊スポーツ賞金杯アメリカジョッキークラブカップに優勝した。その引退後は東京競馬場誘導馬となり、1995年6月から1999年11月まで務めた。栗毛の馬体に金色の尾とたてがみを持つ「尾花栗毛」の特徴から、競走馬、誘導馬双方の時代を通じてファンからの人気を集めた。

経歴

デビューまで

1986年、北海道静内町藤正牧場に生まれる。父は競走馬時代に長距離の八大競走で3勝を挙げたグリーングラス。母カメリアトウショウは不出走馬だが、競走馬時代にグリーングラスのライバルだったトウショウボーイを生んだソシアルバターフライ系の出身馬だった。ソシアルバターフライ系はスピード豊かな馬を生み出す系統として知られていたが、牧場では大競走を勝つスタミナを求めて長距離型の種牡馬との配合を試みており、本馬もそうしたなかで生まれた1頭であった[1]。しかし幼駒の頃から後躯の踏ん張りがきかないという欠点を持ち、一時は競走馬としての将来を危ぶまれたほどであった[1]。また気候により蹄が割れてしまう裂蹄の症状も抱えていた[1]

競走年齢の3歳に達した1988年3月末、茨城県美浦トレーニングセンターの新関力厩舎に入る。競走名は、馬主の冠名「トウショウ」に、漫画『北斗の拳』の登場人物「金色のファルコ」に由来した「ファルコ」を加えたものだった[2]

競走馬時代

4歳となっていた1989年2月4日、小倉開催で競走馬としてデビュー。初戦の6着を経て、2戦目に初勝利を挙げた[2]。しかし以後は後躯の欠点もあり順調に勝ち上がれず、しばらく条件馬として過ごした。5歳となった1990年初頭には平地競走に見切りを付けて障害競走への転向が検討され、同期馬のトウショウクルーゾと共に栃木県の障害馬育成施設に送られた[1]。クルーゾは同年4月に障害入りしたが、ファルコには適当な競走がなかったことから引き続き平地で出走を続けた[1]。すると障害練習を行ったことにより後躯が強化されて成績が安定し、翌1991年7月には格上挑戦した重賞・七夕賞で3着と好走。そして10月に出走したオープン競走・東京スポーツ杯で通算5勝目を挙げ、オープンクラスに昇格した[1]

続くアルゼンチン共和国杯では9着と敗れたものの、年末のフェアウェルステークスに勝利。翌1992年初頭には日刊スポーツ賞金杯に出走した。年初開催の新記録となる13万6695人という観衆が集ったなかで単勝6番人気の評価だったが、騎手を務めた柴田政人は一気の加速ができないことを見越して最終コーナー先頭という積極策をとり、そのままゴールまで押し切ってトウショウファルコは29戦目での重賞初勝利を挙げた[3]。走破タイム1分59秒6はコースレコードから0秒1差という好記録だった[1]。この頃には後躯の弱さや裂蹄の不安もなくなっており、強い調教を掛けられるようになっていた[4]。3週間後に出走したアメリカジョッキークラブカップでは逃げを打って前半1000メートルを62秒というスローペースに持ちこみ、逃げ切りでの重賞2連勝を遂げた[3]。これはグリーングラスとの同一競走父子制覇ともなった[3]。柴田政人は「金杯の時は半信半疑だったけど、自分が考えた以上に力を付けている。どこまで強くなるのか興味を持っています」と語った[3]

名実共に天皇賞(春)に向けた注目馬の1頭となったが、同競走への前哨戦とする予定だった日経賞直前に蹄球炎を発症し、休養を余儀なくされた[2]。11月に天皇賞(秋)で復帰するも15着と大敗。その後はアルゼンチン共和国杯に向けて調整されていたが、右前脚を骨折し再度休養に入った[2]。以後復帰に向けて療養が続けられていたが、1993年8月に右前脚を再度骨折し、これをもって引退が発表された[2]

誘導馬時代 - 引退後

ファンの間では「グリーングラスの後継種牡馬に」との声もあったものの、強い要望を受けて東京競馬場で誘導馬となり[5]、訓練を経て1995年6月より供用された[2]。競走馬時代から女性ファンを中心にパドックでの声援やファンレターを数多く受けとる存在だったが[6]、誘導馬となってからも同様の事象が続いた[7]。柴田政人は「金色のたてがみをなびかせて走っている姿は、自分が乗っていてもきれいだな、と思ったほどだから、ファンにとってはたまらなかったんでしょうね。それだけトウショウファルコの姿はファンを惹きつけるほど魅力的だったのでしょう」と評している[6]。1999年11月7日の開催をもって誘導馬生活からも退き、当日の昼休みには「お別れセレモニー」が行われた[2]

その後は神奈川県横浜市馬の博物館に展示される様々な馬種のうちサラブレッドの代表として繋養され、同博物館の「乗馬デー」では一般客の体験乗馬役も担った[8]

2005年10月21日老衰のため19歳で死亡[9]。10月27日には馬の博物館がある根岸競馬記念公苑にて、お別れの会が開かれた。同所には「トウショウファルコ号ここに眠る」と刻まれた追悼石碑が設けられている。

馬齢別競走成績

  • 4歳(1989年)-10戦2勝
  • 5歳(1990年)-10戦2勝
  • 6歳(1991年)-8戦2勝(東京スポーツ杯-OP)
  • 7歳(1992年)-3戦2勝(アメリカジョッキークラブカップ-GII、金杯・東-GIII)

※OP = オープン特別戦。

血統表

トウショウファルコ血統ハイペリオン系/Hyperion4x5=9.38%) (血統表の出典)

グリーングラス
1973 黒鹿毛
父の父
*インターメゾ
Intermezzo
1966 黒鹿毛
Hornbeam Hyperion
Thicket
Plaza Persian Gulf
Wild Success
父の母
ダーリングヒメ
1964 栗毛
*ニンバス
Nimbus
Nearco
Kong
ダーリングクイン *ゲイタイム
ダーリング

カメリアトウショウ
1982 栗毛
*ハンザダンサー
Hunza Dancer
1972 鹿毛
Hawaii Utrillo
Ethane
Oonagh Sword Dancer
Uvira
母の母
ガールトウショウ
1975 栗毛
*チャイナロック
China Rock
Rockfella
May Wong
*ソシアルバターフライ
Social Butterfly
Your Host
Wisteria F-No.1-w

主な近親についてはソシアルバターフライを参照のこと。

脚注

  1. ^ a b c d e f g 『週刊100名馬vol.15 トウショウファルコ』pp.6-7
  2. ^ a b c d e f g 『週刊100名馬vol.15 トウショウファルコ』p.11
  3. ^ a b c d 『優駿』1992年3月号、p.144
  4. ^ 『優駿』1992年3月号、p.152
  5. ^ お知らせ”. トウショウ牧場ニュース (2005年10月24日). 2014年11月5日閲覧。
  6. ^ a b 『週刊100名馬vol.15 トウショウファルコ』p.33
  7. ^ 『季刊名馬』1996年春号、p.20
  8. ^ 『週刊100名馬vol.15 トウショウファルコ』pp.8-9
  9. ^ ファルコ老衰で死亡”. スポーツニッポン (2005年10月23日). 2014年11月5日閲覧。

参考文献

  • 優駿』1992年3月号(日本中央競馬会)
  • 『季刊名馬』1996年春号(緑書房)
    • 北野あづさ「誘導馬の活躍 トウショウファルコ」
  • 『週刊100名馬 Vol.15トウショウファルコ』(産経新聞社、2001年)
    • 谷川善久「丘の上の幸福な日々」
    • 「データで見るトウショウファルコ」
    • 鈴木学「柴田政人調教師 記録より記憶」

外部リンク