澄川 (札幌市)

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澄川
澄川公園の「拓魂」像
澄川公園の「拓魂」像
澄川の位置(札幌市内)
澄川
澄川
澄川の位置
北緯43度0分16.0秒 東経141度22分9.8秒 / 北緯43.004444度 東経141.369389度 / 43.004444; 141.369389
日本の旗 日本
都道府県 北海道
市町村 札幌市
行政区 南区
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
005-0001〜07
市外局番 011[1]
ナンバープレート 札幌

澄川(すみかわ)は北海道札幌市南区の地名。

精進川の東岸に広がる地域である。

歴史[編集]

澄川は、かつての豊平町大字平岸字精進川・真駒内・東裏・平岸・山の上・望月寒・精進川沿・焼山(一部)を含む地域である[2]

札幌本府の建設が始まったころ、この一帯はトドマツの森林であり、開拓使はここから木材を伐り出していた[3]

1871年(明治4年)、精進川の両岸に岩手県から入植者が来るものの、本格的な開拓には至らなかった[2]

1882年(明治15年)、福岡県筑前国遠賀郡山鹿村字正津ヶ浜から21戸が北海道移住のため出立し、そのうち9戸がこの地に入植することで開拓が始まった[3]。ところが移住を斡旋した「報国社」がまもなく解散してしまい、移住者たちは住居もおぼつかなくなってしまった[3]。同じく福岡県から福移に入植した「開墾社」の件と合わせ、事態は社会問題化した[3]1883年(明治16年)11月に福岡県で集められた救助金が届けられ、1885年(明治18年)まで送金された[3]。前述の9戸もその分配を受け、大いに励まされたものの、開墾は容易ではなく、この地を去る者や小作となる者も多かった[4]

1885年には第2回の筑前移民が行われ、26個のうち19戸がこの地に入植した[5]。しかし1889年(明治22年)の大冷害の影響もあり、彼らが定着するのは難しかった[5]1890年(明治23年)ころから、南1条西3丁目で呉服屋を営む石田篤三郎らが土地を取得[5]。石田は小作制をとり、1892年(明治25年)には故郷の新潟から人を呼び寄せ、筑前移民の残留者とあわせて道半ばの開拓を続行させた[5]。しかし呉服屋の経営が不振となったことから、これらの土地は1894年(明治27年)に大井上逸策に譲渡され、次いで大井上輝前の所有となった[5]

1896年(明治29年)、小樽三大網元のひとつ茨木家の茨木与八郎が土地を取得し、約63.8ヘクタールの「茨木農場」を開設した[5]。また同年、精進川沿いの土地約180ヘクタールの貸下げを受けた阿部與之助が、そのうち130ヘクタールを造林地とした[5]。阿部は1897年(明治30年)からカラマツの苗木を育てて植林を開始し、1912年(大正元年)秋に完了した[5]。最終的に阿部造林は約240ヘクタールに及び、北海道内屈指の美林と称され、1913年(大正2年)には大日本山林会から有功章を授与された[6]。一方、田畑を中心としていた茨木農場は、1925年(大正14年)からリンゴの苗木5000本を植えつけ、果樹栽培も始めた[5]。彼らの働きにより、一帯は農業と林業で発展していった[6]

1944年(昭和19年)、精進川の流れにちなんで地名を「澄川」と改めた[2]

交通[編集]

施設[編集]

学校
企業
その他の施設

脚注[編集]

  1. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年3月30日閲覧。
  2. ^ a b c 『札幌地名考』p.100
  3. ^ a b c d e 片岡 2012, p. 284.
  4. ^ 片岡 2012, pp. 284–285.
  5. ^ a b c d e f g h i 片岡 2012, p. 285.
  6. ^ a b 片岡 2012, p. 286.
  7. ^ 札幌地区営業所の担当路線の系統番号”. 北海道中央バス. 2019年7月28日閲覧。
  8. ^ 市内路線バス 路線案内”. 北海道中央バス. 2019年7月28日閲覧。
  9. ^ 空港連絡バス”. 北都交通. 2019年7月28日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『札幌地名考』さっぽろ文庫1
  • 片岡秀郎『札幌歴史散歩』ヒルハーフ総合研究所、2012年7月14日。ISBN 978-4-9906400-0-2 

外部リンク[編集]