平和 (随筆)

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平和
Der Friede
著者 エルンスト・ユンガー
発行日 1945年
ジャンル 戦争思想平和学
ドイツの旗 ドイツ
言語 ドイツ語
形態 エッセイ
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平和』(へいわ、ドイツ語原題:Der Friede, 副題 :「ヨーロッパの青年への言葉、世界の青年への言葉」Ein Wort an die Jugend Europas und an die Jugend der Welt,)は、エルンスト・ユンガーによる著書である。

『平和』は、1941年の冬に執筆され1943年の夏にその全体が完成し、1945年に公表されたユンガーの政治的エッセイである。ユンガーのそれまでの著作『忘れえぬ人々(1928年)』と『総動員(1930年)』は第一次世界大戦のドイツ戦没軍人の、『平和』は第二次世界大戦における全ての死者の追悼論である。エッセイのコピーは、1943年以来流通しており、初版は、1945年に完成する前にイギリスの占領軍当局によって没収され、一部を除く校正版が処分された。

概要[編集]

ユンガーのナショナリズム思想を読み解く場合、追悼論に着目する必要がある。というのも、ユンガーのナショナリズム思想は、専ら、第一次世界大戦に前線軍人として参加し、そこで同世代の大量死と遭遇した彼自身の経験に由来するからである。ユンガーは元々、ナショナリストであった訳でなく、寧ろ戦後、同世代の死を無にできないという思念に駆られた戦争体験の回顧を通じてナショナリストとなった。

ユンガーは、1920年代末から徐々にナチズムに対してばかりでなく、総じて政治活動一般に対して一線を画し始めている。彼の著作『冒険心』において、ユンガーは当時の心境を次のように述べている。

今日獲得されうる成果の安っぽさは、私に政治活動を殆ど卑猥なものと感じさせた。今日の社会でドイツを探し求めることは不可能である。人は孤立してこの探求を行わなければならない。あたかも原生林の中で、この密林のどこかに同じ作業に従事している人がいるという希望だけに支えられながら、ジャングル用ナイフによって突破口を切り拓く人のように[1]

第三帝国期におけるユンガーは、言わば隠者のそれであり、ナチズムに対して明確な批判的距離を取る一方で、軍部保守派などによる抵抗運動に対して深い共感を示しつつも、それらへの直接的関与を拒んだ。

『苦痛について』(1934年)辺りから始まり、『大理石の断崖の上で』(1939年)を経て、『射光』(1949年)と『平和』において頂点に達する中期思想において、ユンガーの関心は、自らの初期思想を、近代カオスに直面した人間の内面的な秩序喪失の表れとして捉え、植物採集と聖書研究とを通じた「偉大な秩序」の探求によって、それを克服することに置かれる[2]。『平和』では、キリスト教共同体としてのヨーロッパ連邦の設立による国民国家体制の超克が唱えられる。後に、ユンガーの後期思想において造形される「森を行く人」や「アナーク」といった無政治的で単独者的な人間像を、初期・中期の思想と対比して一言で特徴づけるならば、国民国家の論理に徹底して付き合った果てにそれらからの内面的離脱が、しかも神学形而上学に頼らずに模索される、と言える。

菅谷規矩雄は、ユンガーの言語論を邦訳した際、その訳者ノートにおいて、「ナショナリズムを基底としてナチズムを超出する抵抗の思想ははたして可能か、という問いに、エルンスト・ユンガーがひとつの不可避のネガティヴ、わが国の戦争期の文学・思想には殆ど類例のない問題性を提起している」と述べた上で、ゴットフリート・ベンの「没主体」的なナチ体制加担者とその帰結たる「小市民的保身」と比較する形で、ユンガーの歩んだ「アクティヴな」途が孕みうる可能性を、その否定性と共に示唆した[3]

ユンガーの追悼論には、戦死者の追悼を政党政治の道具として、或いは国民統合の方便として利用する打算的態度を許さない、ある純粋さが孕まれている。ユンガーは、権威主義的儀礼と結びついた第二帝政期の追悼論を、自己に威信を与えるためだけに唱えられる「官製の愛国主義[4]」と貶す一方で、戦間期のあらゆる陣営において流行となった戦没軍人崇拝を、「戦死者の血に訴える大規模な政治的商売の特別部門[5]」、「決まり文句で水増しされた政党政治[6]」、「天と地の間にあるものなら何でも儲けの種にする、あの文明の精神に相応しい死者崇拝[7]」、などと言葉の限りを尽くして罵倒している。

ユンガーのナショナリズム思想は、特定の体制と結びついた国体論でなく、寧ろ追悼そのものを内容とする国民論である[注釈 1]。『平和』で示される一見理解しづらいユンガーの変貌の中に、彼なりの内的必然性に駆られた発展の筋道が浮上している。『総動員』におけるナショナリストとしてのユンガー像と、『平和』における汎ヨーロッパ主義者としてのユンガー像との間には、大きな懸隔がある。『総動員』ではユンガー自身のドイツ人としての立脚点が依然として固守されたものの、続く『労働者』で、労働者という新しい人間類型による労働国家という世界帝国型の国家秩序の出現との予測が肯定的に論じられたことによって、民族的な特殊性に対するユンガーの固執は、少なくとも決定的に破棄された。『平和』では、ユンガーのこのような政治社会理論的発展を受けて、第二次世界大戦の歴史的意義が、国民国家体制の清算と複数の帝国へのそれの再編とを内容とする「人類最初の共同作業」として位置づけられる。『忘れえぬ人々』から『平和』に至るまでのユンガーの追悼論が、私心のない献身の行為に対する敬意を本質とする点で首尾一貫していることは、『平和』における次の一説からも見て取れる。

真の果実は、ただ人類の共有財、その最良の核心、その最も高貴で私心のない層から生じうる。これは、自分のことや自分の幸福を顧みず、他者のために生きそして死に、他者のために犠牲を払う人々の中に求めうる。しかもこうした行為は、夥しく生じた。世界を新たに構築するための礎石として、すでに膨大な犠牲が積み上げられている。 — 『平和』第1部2章

抄録[編集]

緒言[編集]

この書『平和』は、1941年冬にその骨子が描かれ、1943年夏に現在の形に出来上がった。これまでの間に、事態は変わった。しかしながら、ヨーロッパの健康のみならずひいては世界の健康をも回復しうる治療法は変わっていない。
 原稿を読み、慎重に秘密を守って下さった方々に対して、私は、是非とも御礼を申し上げたい。彼等の中の少なからぬ人々は、逮捕される恐れがあったにも関わらず、読者となってくれた。私がとりわけ思い起こすのは、ハインリヒ・フォン・シュトゥルプナーゲル将軍[注釈 2]である。この騎士的人物の庇護の下で、本書は成立した。
 この作品を我が愛する息子、エルンスト・ユンガーに捧げる[注釈 3]。彼もこの作品を知っていた。彼は、まだ殆ど少年に過ぎなかったにも関わらず、国内の専制に対する抵抗において自らの真価を証明し、専制の牢獄の中で苦しめられた後、1944年11月29日、カララの大理石の山中において18歳で祖国のために死んだ。このように諸民族の最良の者達でさえ、容赦されなかった。彼等が我々に遺産として残した、この様な犠牲と苦痛は、実を結ぶであろう。 — ハノーヴァー近郊のキルヒホルストドイツ語版にて
1945年4月4日

第1部 種子[編集]

恐らくこの戦争は人類最初の共同作業であった、と言ってよかろう。戦争を終わらせる平和は、第二のそれでなければならない。(…)
 平和は、政治的な作品やより高い意味における精神的な作品に限定されうるものでなく、寧ろ同時に、善良で献身的な諸々の力の産物でもあらねばならない。かくして平和は、論理的に言えば原則に基づいて、神学的に言えば福音的に基づいて確立される。
 では我々の考察を導く福音たるものは何であろうか。それは、戦争が万人に果実をもたらさなければならない、ということである。 — 1章
この歳月における精神的人間の苦痛は非常に大きかった。自分自身が迫害を受けること以上に彼の誇りを一層深く傷付けたものは、下劣な連中が支配者として君臨する光景であった。戦争や諸々の危険よりも、寧ろ大衆の陰湿な衝動の方が彼を慄然とさせた。この衝動が、先ず野蛮な歓呼によって、次いで憎悪と報復の熱狂によって、大衆を、やがて炎の中へと通じる不確かな道へと急ぎ立てたのである。 — 5章

第2部 果実[編集]

人間が決して忘れてならないことは、今彼を脅かす光景が彼の内面の肖像である、ということである。(…)
激情の抑制を前提とした平和のみが、恵みをもたらしうるのである。
 このことが特に熟慮されるべきであるのは、罪ある者の処罰が議論の俎上に載せられる時である。その時には、まさしく意志は強靱だが判断力に欠ける連中が、裁判官の席に殺到しよう。それ故、ここで支配すべきは理性と全体の知識とであり、古き不正に新たに不正を上塗りしがちな党派の盲目の復讐欲でない、ということがとりわけ重要なのである。(…)
 正と不正とを区別し、自らの身を危険に晒してでも悪行に立ち向かうことが、人間に要求されるべきである。悪は、強いられてなしたということによっても、時代が要求したということによっても、許され得ない。これに関しては、マタイ書の次の言葉が相応しい。
「罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである[10] — 9章
先ずは大衆が永遠の道徳へと連れ戻されるべきである。それが無ければ大衆は全く無防備なまま絶滅に委ねられてしまうからである。それは人間の道であり、人間の偉大な模範の継承である。然しながら、もしそれと同時に単なる風紀を高く超えるところに神的なイメージへの通路が見出せなければ、この模範は空しいものに留まる。しかしこの通路を進むことができるのは、少数のエリートだけである[注釈 4] — 16章

序言として引用された言葉[編集]

  • 第1部 種子 「愛によって完全に克服された憎悪は、愛に変わる。そのとき愛は、憎悪を経ないときよりも、いっそう強いものとなる」 ― (スピノザ倫理学』、定理第44)
  • 第2部 果実 「市民的世界の平穏の中ではなく、黙示録的な雷鳴の中で、宗教が再生するであろう」 ― (ヴァルター・シューバルトドイツ語版『ヨーロッパと東方の魂』)

邦訳書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Ernst jünger, Das Abenteuerliche herz. Easte Fassung, sämtliche Werke, Bd.9, Klett-Cotta, 1979, S.114
  2. ^ 「エルンスト・ユンガーにおける政治と文学―『大理石の断崖の上でについて』―」『創文』第421号、創文社、2000年 1~6頁
  3. ^ 『言葉の秘密』菅谷規矩雄訳、法政大学出版局、1998年、150~169頁
  4. ^ Ernst Jünger, Das Wäldchen 125, S.132.
  5. ^ Ernst Jünger, Die Lebenden und die Toten, Widerstand. Zeitschrift für nationalrevolutionäre politik, Dresden, 1928, S.19.
  6. ^ Ernst Jünger, Die Lebenden und die Toten, Widerstand. Zeitschrift für nationalrevolutionäre politik, Dresden, 1928, S.20.
  7. ^ Ernst Jünger, Die Lebenden und die Toten, Widerstand. Zeitschrift für nationalrevolutionäre politik, Dresden, 1928, S.16..
  8. ^ Ernst Jünger, Der Aufmarsch, standarte, April 1926, S.55.
  9. ^ a b 川合 p.191
  10. ^ 『マタイによる福音書』第18章の7
  11. ^ 川合 p.194
  1. ^ 例えばユンガーの次の言葉を参照されたい。「我々の旗は、でも、黒赤金でも、黒白赤でもない。それは、我々の心情に根ざし、そこから形成されるべき新しい一層偉大な国家の旗である。我々の共通の伝統は戦争であり、偉大な犠牲である[8]。」
  2. ^ 1942年から1943年にかけてフランス派遣軍司令官を務める一方で、エルヴィン・ロンメル元帥と共に西部方面軍における抵抗運動の指導的役割を演じた人物である。1941年6月から1944年8月までフランス派遣軍司令部付将校として駐在していたユンガーは、ハンス・シュパイデル大佐を介して、司令部内に形成された抵抗派サークルの会合に度々参加し、そこで『平和』の草稿について報告したという。『平和』は、シュトゥルプナーゲルやシュパイデルの庇護の下に、そして彼等の周りに集まった抵抗派の軍人達との知的道徳的交流を通じて生まれた作品である、と言ってよい[9]
  3. ^ エルンスト・ユンガー(1926~1945年)は、ユンガーの長男である。『平和』の諸版の中、1946年にアムステルダムのエラムス社から出版された版には、編者による序言と著者による緒言との間の頁に、著者名と題名との下部に次の献辞が記されている。「我が息子エルンスト・ユンガーに/1926年5月1日に/生まれ/1944年11月29日に/カララの大理石の山で/戦死す」[9]
  4. ^ 全集版と著作集版とでは、この箇所が全て削除されている。道徳的エリート主義を志向するこの箇所を削除した点が、『平和』に関して著者が後年に加えた最大の実質的修正である[11]

参考文献[編集]

  • 川合全弘 (2016). 『ユンガー政治評論選』. 月曜社. ISBN 978-4865030327