帰山教正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
かえりやま のりまさ
帰山 教正
生年月日 1893年3月1日
没年月日 1964年11月6日(満71歳没)
出生地 日本の旗 日本
職業 映画理論家映画監督脚本家
ジャンル サイレント映画、映画理論
活動期間 1910年ころ - 1964年
主な作品
映画
深山の乙女
生の輝き
映画理論
『映画の性的魅惑』

帰山 教正(かえりやま のりまさ、明治26年(1893年3月1日 - 昭和39年(1964年11月6日)は、日本映画理論家映画監督脚本家である。「純粋劇映画運動」を創始し、「映画藝術協會」を設立、日本に初めて「映画女優」を登場させたことで知られる。

来歴・人物[編集]

1893年(明治26年)3月1日に生まれる。1910年(明治43年)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。

かつて映画会社吉沢商店が出資した映画雑誌『活動写真界』(1909年 - 1913年)の寄稿者で、『キネマレコード』誌の同人になり、1917年には『活動写真劇の創作と撮影法』(正光社)という映画理論書を上梓している[1]

深山の乙女』(1919年)。

同年、24歳のとき、天然色活動写真(天活)の東京本社輸入部(東京市日本橋区、現中央区日本橋)へ入社[1]、海外に輸出できる映画を目指し、1919年、同社で『日本芸妓の踊り』(撮影大森勝)を撮る。同年、26歳で独立、映画製作を開始する。配給に関しては「天活」と提携、監督第一作『深山の乙女』および『生の輝き』(両作とも現代劇)が、1919年9月13日に同日公開された。両作は、従来の「女形」を排し、日本映画に初めて「女優」という概念を導入した。花柳はるみが日本の映画女優第一号である。また俳優陣には、小山内薫系の新劇的人材を導入した。

「映画藝術協會」の設立[編集]

1920年(大正9年)7月公開の『白菊物語』から「映画藝術協會」を名乗り、日本初の芸術映画プロダクションとして十指に近い製作活動を行う。これに刺激され、松竹キネマ大正活映などが、「新しい映画製作」を標榜して続々と世に出てくることとなった[2]

「映画藝術協會」制作第一作『白菊物語』はイタリア、ロンチ商会の依頼によりイタリアへの輸出を目的として製作され、花柳はるみに次ぐ「映画女優」として後に大仏次郎夫人となる吾妻光を起用[3]。花柳や吾妻のみならず、村田実近藤伊与吉青山杉作夏川静江根津新石山竜二といった俳優陣がみな初めての映画体験であり、彼らのなかから、近藤伊与吉、青山杉作、あるいは字幕を担当した押山保明といった人材を続々監督としてデビューさせていった。また、同協会ではなくとも、村田は1920年に移籍した松竹蒲田撮影所で、根津はのちに1926年東亜キネマ甲陽撮影所でそれぞれ監督としてデビューした。また横浜の「大正活動映画」が製作中止に向かうなかで、同社の俳優部の葉山三千子や高橋英一(岡田時彦)が移籍している。新しい映画をつくろうとする現場に人材は集まり、そこにはチャンスがあった。

村田が1920年に移籍した松竹蒲田に帰山は招かれ、『愛の骸』を監督するが、1921年7月7日に大阪では公開になるものの、東京では上映禁止となった。また同年松竹蒲田で製作を開始した監督作『不滅の呪』は未完に終わった。翌1922年、桑野桃華の「桑野桃華プロダクション」で『噫!祖国』を撮るが、そこでも俳優には新人ばかりを起用した。また、当時の配給提携先であった帝国キネマの「巣鴨撮影所」でも1923年に『父よ何処へ』を、1924年に『寂しき人々』を撮った。1926年、33歳のときに撮った『少年鼓手』を最後に、映画作品を発表する機会は失われた。残した作品はすべてサイレント映画だった。

映画理論家としての活動はその後も継続し、映画雑誌『国際映画新聞』(1927年 - 1940年)に執筆参加している(同誌20号「不燃性フィルム問題」など)[4]。1928年には『映画の性的魅惑』(文久社書房)を上梓、映画が表現するエロティシズムにフォーカスした学術的研究[5]で、先駆的な書物である。

1945年、52歳で終戦を迎える。戦後も、映画の技術的側面に特化した執筆をつづけ、1964年(昭和39年)11月6日、死去。満71歳没。

同年12月1日、映画産業団体連合会の第9回「特別功労大章」を受章[6]、また同年度の第19回毎日映画コンクール特別賞を「日本映画草創期における先駆的な映画啓蒙運動の功労」のために受賞した。

フィルモグラフィ[編集]

生の輝き』(1919年)の花柳はるみ。
  • 日本芸妓の踊り 1919年 監督 撮影大森勝 ※天活作品、ドキュメンタリー
  • 深山の乙女 1919年 監督・脚本・撮影 原作水沢武彦(帰山教正)、撮影助手青島順一郎、字幕野川達、出演村田実花柳はるみ近藤伊与吉青山杉作
  • 生の輝き 1919年 監督・脚本・出演 原作水沢武彦、撮影大森勝、字幕野川達、助手鈴木照次郎、出演村田実、花柳はるみ、青山杉作、近藤伊与吉、夏川静江
  • 幻影の女 1920年 監督 原作・脚本水沢武彦、撮影酒井健三、字幕吉田謙吉、出演青山杉作、近藤伊与吉、吾妻光
  • 白菊物語 1920年 監督・原作・脚本 撮影・出演大森勝、字幕吉田謙吉、出演花柳はるみ、青山杉作、近藤伊与吉、村田実、吾妻光、白鳥絢子、饒平名紀芳、根津新
  • 湖畔の小鳥 1920年 原作・脚本・出演 撮影酒井健三、出演吾妻光、安藤和真、近藤伊与吉
  • さらば青春 1920年 監督・撮影 共同監督・脚本近藤伊与吉、原作水沢武彦、出演青山杉作、村田実、吾妻光、根津新(「根津新石」名義)、山竜嗣
  • 悲劇になる迄 1921年 監督・脚本 原作近藤伊与吉、撮影船津晴雄、出演青山杉作、吾妻光、関口存男、近藤伊与吉
  • 愛の骸 監督 出演諸口十九五味国男奈良真養五月信子東栄子 ※松竹蒲田作品
  • 濁流 1921年 監督・脚本 出演葉山三千子石山竜二
  • 不滅の呪 監督・脚本 原作水谷武彦(帰山教正)、出演近藤伊与吉、石山竜嗣、吾妻光 ※松竹蒲田作品
  • 皇国の輝 1921年 監督・脚本 撮影酒井健三
  • 神代の冒険 1921年 監督・脚本 出演葉山三千子、高橋英一、石山竜嗣、水島亮太郎
  • 噫!祖国 1922年 監督・原作・脚本 撮影片岡清、出演関根達発藤川三之助保瀬薫久松三岐子、松山洋子 ※桃華プロ作品
  • お信ちゃんの恋 1923年(1921年製作) 監督・脚本 出演吾妻光
  • 別れ行く女(運命の船) 1923年 原作・脚本 監督押山保明、撮影友成達雄、出演青山杉作、吾妻光、近藤伊与吉、安藤和真
  • 父よ何処へ 監督 原作ゲアハルト・ハウプトマン、脚本伊藤大輔、撮影片岡清、出演関根達発、関操、吾妻光(「吾妻光子」名義)、久松三岐子 ※帝キネ巣鴨作品
  • 愛の曲 1924年 監督・脚本 撮影片岡清、出演近藤伊与吉、汐見洋、夏川静江、久松三岐子、御橋公出雲美樹子、夏川大吾
  • 寂しき人々 監督 脚本伊藤大輔、撮影友成達雄、出演関操、久松三岐子、石田雍一、出雲美樹子 ※帝キネ東京作品
  • 自然は裁く 1924年 監督・脚本 原作桑野桃華、撮影片岡清、出演近藤伊与吉、関根達発、久松三枝子、御橋公
  • 少年鼓手 1926年 監督・脚本 原作エドモンド・デ・アミーチス、出演関根達発、久松三枝子、六條浪子林正夫白河殊子

ビブリオグラフィ[編集]

  • 『活動写真劇の創作と撮影法』、正光社、1917年
「日本映画論言説大系 第3期」として2006年復刻、ゆまに書房 ISBN 4843309664
  • 『映画の性的魅惑』、文久社書房、1928年
「最尖端民衆娯楽映画文献資料集9」として2006年復刻、ゆまに書房 ISBN 4843320986
  • 『シネハンドブック』、日本アマチュア・シネマ・リーグ出版部、1930年
  • 小型映画講座1『活動写真撮影術』、原田三夫共著、日本教材映画、1931年
  • アサヒカメラ叢書8『トリック写真の作り方』、大久保好六共著、東京朝日新聞社、1934年
  • 『映写技術全書』、朝明書房、1957年

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b マツダ映画社」サイトの「無声映画人物録」の「帰山教正」の項の記述を参照。
  2. ^ 『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社)
  3. ^ 「白菊物語」(コシーナ新書) ISBN978-4-904620-14-4 C0274
  4. ^ 「日本映画学会会報 第7号(2007年2月号)」ページ内の板倉史明「映画史が日常の亀裂からこぼれ落ちてくる」の記述による。
  5. ^ ゆまに書房公式サイト内の「最尖端民衆娯楽映画文献資料集 全18巻」の記述を参照。
  6. ^ 映画産業団体連合会公式サイトの「映画の日 特別功労大章・特別功労章及び感謝状贈呈者一覧」を参照。

外部リンク[編集]