小田切新太郎

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小田切 新太郎(おだぎり しんたろう、1907年8月12日[1] - 1997年4月17日)は、日本の経営者信越化学工業社長、会長を務めた。長野県上高井郡須坂町(須坂市)出身[1]

経歴[編集]

旧制長野中学を経て、1932年早稲田大学商学部を卒業し、同年に信越化学工業に入社[1]

1948年6月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1971年7月に副社長に就任し、1974年7月に業界不況の真っただ中の状況で社長に就任する。 ダウコーニング社との合弁で設立した信越半導体と、米国のロビンテック社との合弁で設立したシンテックの合弁側持ち株を買収して100%子会社化する決断・実行したことで世界規模の経営状況に対応する経営基盤を確立した[2]。抜擢した金川千尋にシンテックの経営を[3]、信越半導体の経営を田村喜八に託して世界的企業へ脱皮する礎を築き「信越化学工業中興の祖」と評価された[4]

経営者として「正確さ、迅速さ、誠実さ」を重要視して[5]、社長就任翌年に監査役と取締役の車を廃止する[6]。新潟県の直江津工場が連続して大赤字を出すと直江津工場で三か月に一回取締役会を開いて、全役員を直江津工場に集めた[7]

1983年8月には会長に就任[1]、社用車を返上しようとしたが、会長の車が無くなったら顧問の車もなくなると危惧した小坂善太郎特別顧問と小坂徳三郎最高顧問が思いとどまるように掛け合ったため、しぶしぶ社用車に乗り続けた[8]

1983年4月に勲二等瑞宝章を受章[1]日本経済新聞から「私の履歴書」の執筆依頼を受けると、小坂善太郎特別顧問と小坂徳三郎最高顧問が登場していない連載に自分が登場するわけにいかないと辞退、しばらくして小坂善太郎が連載に登場した[9]

1997年4月17日呼吸不全のために死去[10]。89歳没。信越化学工業を世界的優良企業に飛躍させた金川千尋は、信越化学の取締役会で反対意見が多かったシンテックの全額出資化を、小田切社長が平の取締役だった私を信頼して反対を押し切り全経営を任せてくれた。私の弱点をカバーしながら経営を託してくれた。もし小田切さんに出会わなければ私は会社を辞めて事業を興していたと深く尊敬していた[11]

家族・親族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 人事興信所 1985, お48頁.
  2. ^ 金児昭著『小田切新太郎社長の器 : 信越化学工業中興の祖』13~20頁「社運を賭した二つの世界的M&A」,イースト・プレス,2013.11
  3. ^ 日本経済新聞2006年5月1日『私の履歴書』,金川千尋「小田切氏の恩‐会社を託され意気に」,2013.11
  4. ^ 金児昭著『小田切新太郎社長の器 : 信越化学工業中興の祖』116頁,イースト・プレス,2013.11
  5. ^ 金児昭著『小田切新太郎社長の器 : 信越化学工業中興の祖』55頁,イースト・プレス,2013.11
  6. ^ 金児昭著『小田切新太郎社長の器 : 信越化学工業中興の祖』46頁,イースト・プレス,2013.11
  7. ^ 金児昭著『小田切新太郎社長の器 : 信越化学工業中興の祖』85頁,イースト・プレス,2013.11
  8. ^ 金児昭著『小田切新太郎社長の器 : 信越化学工業中興の祖』46・47頁,イースト・プレス,2013.11
  9. ^ 金児昭著『小田切新太郎社長の器 : 信越化学工業中興の祖』140・141頁,イースト・プレス,2013.11
  10. ^ 1997年 4月18日 日本経済新聞 夕刊 p17
  11. ^ 日本経済新聞2006年5月1日『私の履歴書』,金川千尋「小田切氏の恩‐会社を託され意気に」,2013.11
  12. ^ 人事興信所 編『人事興信録』第11版(昭和12年) 上
  13. ^ 人事興信所 編『人事興信録』第8版(昭和3年)
  14. ^ 人事興信所 編『人事興信録』第13版(昭和16年) 下
  15. ^ 人事興信所 編『人事興信録』第13版(昭和16年) 上
  16. ^ 人事興信所 編『人事興信録』第13版(昭和16年) 上

参考文献[編集]

  • 人事興信所 編『人事興信録 第33版 上』人事興信所、1985年。 
  • 信濃毎日新聞社 編『長野県人名鑑』
  • 金児昭著『小田切新太郎社長の器:信越化学工業中興の祖』,イースト・プレス,2013.11
先代
小林周蔵
信越化学工業社長
1974年 - 1983年
次代
小坂雄太郎