台湾民主国
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台湾民主国(たいわんみんしゅこく)は1895年に締結された下関条約によって日本に割譲された台湾で、祖国清から見捨てられた形になった台湾人達が郷土を防衛するために建国を宣言した国家である。大日本帝国と乙未戦争を戦ったが敗北し征服された。
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[編集] 略史
日清戦争に敗北した清朝は下関条約により台湾及び澎湖諸島を日本に割譲した。これは、台湾在住者に全く知らされずに締結されており、下関条約によって台湾在住者は一夜にして日本人となった。
この決定を知った台湾住民の間ではこれに反発する声が巻き起こり、その中で清国人であった当時の官僚と一部住民が協力し1895年5月23日に台湾民主国独立宣言を発表、24日には各国語に翻訳し駐台湾の各国領事館に通知している。そして25日独立式典を実施し台湾民主国の成立を宣言した。
独立式典では、唐景崧を総統(日本語では大統領)に選出するとともに、青地に黄虎の黄虎旗を国旗と定め、永清と改元した。当時台湾第一の富豪であった林維源を国会議長に推戴するが、林はこれを拒否、100万両を新政府に献金したのち27日には廈門に逃亡している。
5月29日、日本軍が澳底(現在の台北県貢寮郷)に上陸すると、傭兵を主体としていた民主国軍は総崩れとなり、6月3日には基隆を占拠されてしまう。これにより新政府は空中分解、翌4日には唐景崧は老婆に変装し、公金を持ってドイツ商船のアーター (Arthur )号に乗船して廈門に逃亡してしまう(これにより台湾民主国は滅亡すると主張する史家も存在している)。
唐景崧が逃亡したことで、台湾人は6月下旬に台南で大将軍劉永福を第二代台湾民主国総統に選任した。後世の史家はこれを台南共和 (Tainan Republic) や第二共和 (Second Republic) と称する事もある。
劉永福が総統に就任して3ヵ月間、民主国と日本軍の間で戦闘が繰り返されたが、日清戦争を勝ち抜いた日本軍と、傭兵主体で数にも劣る台湾民主国軍では実力が違っていた。10月下旬には劉永福が中国に逃亡し、台南も日本軍によって占拠された。ここに台湾は完全に日本に征圧され、その日本の領土となった。台湾民主国・台湾人と日本軍との戦いは乙未戦争と呼ばれている。
[編集] 台湾民主国年表
- 5月23日:「台湾民主国自主宣言」発表
- 5月25日:台湾民主国総統に唐景崧就任,台湾民主国が正式に成立。永清と改元
- 5月29日:近衛師団が澳底より上陸
- 5月30日:唐景崧が令民主国部隊に対し瑞芳龍潭堵及び基隆獅球嶺砲台の防衛を命令
- 6月1日:清国代表李経芳と日本代表樺木により台湾割譲成立。民主国議長林朝棟廈門へ逃亡
- 6月3日:獅球嶺砲台と基隆が陥落、民主国軍崩壊
- 6月4日:唐景崧、丘逢甲が公金を横領し中国に逃亡。第一共和崩壊
- 6月6日:民主国軍により台北略奪。辜顕栄などの商人が日本統治を承認
- 6月11日:日本軍台北を占拠
- 6月17日:日本による施政開始
- 6月22日:日本軍新竹を占拠
- 6月26日:劉永福が台湾民主国総統に就任
- 7月9日:台湾民主国義勇軍新竹にて敗北。姜紹組自殺
- 8月14日:日本軍苗栗を占拠
- 8月28日:彰化八卦山の闘い。呉湯興及び呉彭年死亡
- 8月29日:台湾知府黎景嵩逃亡
- 8月29日:日本軍彰化を占拠
- 9月:廈門にて「台湾民主国股份票」発行
- 9月1日:日本軍雲林を占拠。羅汝沢中国へ逃亡
- 10月7日:日本軍斗六を占拠。簡義雲嘉山に逃れ鉄国山を名乗る
- 10月10日:日本軍第四旅団嘉義布袋港より上陸
- 10月11日:日本軍第二師団枋寮より上陸
- 10月12日:民主国駐東港管帶呉光忠逃亡
- 10月15日:日本軍嘉義を占拠
- 10月16日:日本軍鳳山を占拠
- 10月18日:日本軍台南市を包囲
- 10月19日:台湾民主国総統劉永福中国へ逃亡
- 10月20日:民主国首脳が逃亡した為台南市内混乱。台南商人が日本軍による治安維持を要請
- 10月21日:日本軍台南入城、「台湾民主国」崩壊
- 11月18日:台湾総督府による全島平定宣言が出される
[編集] 台湾民主国総統
[編集] 台湾民主国主要官員
- 民主大将軍:劉永福
- 団練史:丘逢甲
- 議院議長:林維源
- 議院議員:陳雲林、洪文光、白其祥
- 内務大臣:兪明震
- 軍務大臣:李秉瑞
- 外務大臣:陳季同
- 遊説史:姚文棟
- 台北知府:兪鴻、黎景嵩
- 淡水知県:凌汝
- 新竹知県:王國瑞
- 埔里社庁通判:温培華
- 台湾知県:史湾道
- 代理安平知県兼護府道印:忠満
- 雲林知県:羅汝沢
- 鳳山知県:盧自鑠
- 基隆庁同知:方祖蔭
- 南雅庁通判:宋維釗
- 苗栗知県:李烇
- 彰化知県:羅樹勛
- 嘉義知県:孫育満
- 台東州知州:胡伝
- 恒春知県:欧陽煊
[編集] 台湾民主国に対する評価
この短命政権に対し、歴史学者の間でも評価が分かれている。
先ずは欧米で散見される「共和国」の人工性を強調する視点であり、これらは清朝の官僚に主導され、国際的な支持を得ることで台湾に日本の権益浸透を阻止することに主眼を置き、清朝に忠誠を尽くし、一般の台湾人の支持は得られていなかったとするものである。李筱峰の主張によれば台湾民主国は台湾独立運動の嚆矢とは言えず、清朝の官吏が日清戦争敗北後に台湾を講和条件に提起したことに対する住民の反発を恐れたため、台湾における反日運動を計画、住民に対し日本軍の占領と、清朝は台湾を放棄した訳でない事を印象付けるための行動と分析される。
次に中国の民族主義者に多く見られる傾向であるが、台湾民主国を中国人による抗日運動の一環と位置づけ、台湾の主権問題を中国に帰属させる視点である。黄秀政や頼建国らは台湾民主国を台湾独立を画策したものでなく、清朝に帰属させるための過渡期であったと評価している。
この対極に位置する台湾独立派の歴史家の視点を紹介すると、その代表人物とされる史明は台湾民主国は独立自主を標榜したが、その代表の思想は台湾の大衆とは一致するものではなかった。全ての政治目標は清朝の統治下の中国の枠組みを超えることはなかったと評価し、王育徳も台湾民主国の独立宣言に「恭奉正朔,遙作屏籓(清の暦を用い、戸籍に入る)」という一文が含まれていることから、その独立の精神に懐疑的な意見を発表しており、統一派と類似した見解を述べている。



