佐々木積

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ささき つもる
佐々木 積
佐々木 積
舞台『出家とその弟子』で親鸞役を演じる佐々木積(1921年
本名 佐々木 百千万億
生年月日 (1885-03-03) 1885年3月3日
没年月日 (1945-01-02) 1945年1月2日(59歳没)
出生地 日本の旗 日本長野県
職業 俳優
ジャンル 新劇劇映画現代劇時代劇サイレント映画トーキー
活動期間 1909年 - 1945年
著名な家族 娘(義理):夏川静江
息子(義理):夏川大二郎
テンプレートを表示

佐々木 積(ささき つもる、本名は同読で百千万億1885年3月3日 - 1945年1月2日)は、日本俳優である。坪内逍遥島村抱月の「文芸協会」で「日本の女優第一号」こと松井須磨子の同期として新劇俳優を始め、「舞台協会」を設立、また日活東亜キネマ無声映画にも出演した。のちのスター女優夏川静江、おなじくのちの俳優夏川大二郎は妻の連れ子である。

来歴・人物[編集]

本名の「佐々木 百千万億」は珍名である。早稲田大学文学部露文科卒業。1909年(明治42年)4月、24歳のときに、坪内逍遥、島村抱月の「文芸協会」が設立した「文芸協会演劇研究所」に入学する。同期生は、武田正憲林和柳下富司伊藤理基掬月晴臣日高清久里四郎志田徳三、松井須磨子、三田千栄子(のちの山川浦路上山草人の妻)、五十嵐吉野の11名であった[1]。同年9月の再募集入学組には上山草人、河竹繁俊がいた。

1913年(大正2年)5月31日、同協会を抱月が退会、須磨子が諭旨退会処分で去り、解散にまで追い詰められる。佐々木は、同年11月、横川唯治加藤精一森英治郎吉田幸三郎らと「舞台協会」を結成、帝国劇場で第一回公演を打つ[1]

1921年(大正10年)、36歳のときに結婚、相手は、上山草人の「近代劇協会」の舞台でデビューし、帰山教正の「映画芸術協会」の設立第二作『生の輝き』に弟(のちの夏川大二郎)とともにそろって映画デビューしていた子役・夏川静江(当時11歳)の母であった。

1923年(大正12年)、日活向島撮影所に入社、田中栄三監督の『髑髏の舞』、つづいて同監督の『忘れな草』に義娘・静江とともに出演する。1920年に先に入社していた「舞台協会」の同志・森英治郎も、前者には出演している。静江は少女なりに順調に主役を獲得していくが、佐々木は脇役ばかりだった。同年秋まで5作に出演し、1925年には森英二郎とともに兵庫甲陽園に移り、東亜キネマ甲陽撮影所に入社、桜庭青蘭監督の『虹を追ふて』で主演となる。静江も同作には出演している。森が「映画芸術協会」出身の出雲美樹子とともに主役を張っているのに比して、佐々木は1作以外はやはり脇であった[2]。同年いっぱいで東亜を退社、舞台に専念する。

1927年(昭和2年)、静江は18歳で京都に移り、日活大将軍撮影所に入社、順調にキャリアを積み始め、スターとなっていく。

1928年(昭和3年)、佐々木は、東京の帝国劇場の舞台『大菩薩峠』で与八を演じている[3]。その後、1937年(昭和12年)には、日活京都撮影所の大作、大河内伝次郎主演『大菩薩峠 第一篇 甲源一刀流の巻』(監督稲垣浩、応援監督山中貞雄荒井良平)に出演、中村一心斎を演じた[2]。最初で最後のトーキー出演であった。

1945年(昭和20年)1月2日、死去した。満59歳没。

フィルモグラフィ[編集]

日活向島撮影所
東亜キネマ甲陽撮影所
日活京都撮影所

関連事項[編集]

[編集]

  1. ^ a b 竹中一男『近代日本の道程』サイト内の「第三章 演劇の目覚めと展開」の記述を参照。
  2. ^ a b 日本映画データベースの「佐々木積」を参照。
  3. ^ 平山蘆江『大菩薩峠芝居話』(「騒人」誌1928年3月号掲載)の記述を参照。青空文庫サイト内の「平山蘆江 大菩薩峠芝居話」に原文が掲載されている。