井田城 (武蔵国)

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井田城
神奈川県
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 中田氏?
築城年 不明
主な城主 中田加賀守?
廃城年 不明
遺構 土塁?(蟹ヶ谷古墳群の誤認か)
指定文化財 なし
位置 北緯35度33分57.9秒 東経139度38分07.1秒 / 北緯35.566083度 東経139.635306度 / 35.566083; 139.635306座標: 北緯35度33分57.9秒 東経139度38分07.1秒 / 北緯35.566083度 東経139.635306度 / 35.566083; 139.635306
地図
井田城の位置(神奈川県内)
井田城
井田城
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井田城(いだじょう)は、神奈川県川崎市高津区蟹ケ谷中原区井田井田山)付近にあったとされる日本の城山城)。神奈川県立中原養護学校辺りだったと云う。近傍の神庭緑地に蟹ヶ谷古墳群があるが、井田城土塁への転用は確認されていない(後述)。

概要[編集]

矢上川右岸の高台にあり、東急東横線東急目黒線元住吉駅から西に1.5キロメートルほど離れた神奈川県立中原養護学校がある付近が城跡と伝わる。城主は中田氏と伝えられ、一族の一人「中田加賀守」は後北条氏に仕え、小机衆として井田城のほか、矢上城港北区日吉慶應義塾大学日吉キャンパス内)や川島(保土ケ谷区)の地を領有したが[1]、1590年(天正18年)の小田原城落城時に憤死したという[2]

日本城郭大系[3]などでは、矢上川の崖線に沿うように土塁櫓台[1]が残るとされる。中原養護学校北側の「神庭緑地」として公園化されている台地の縁辺には、実際に土塁または櫓台状の高まりが存在するが、これらは古墳時代後期(6世紀~7世紀)の蟹ヶ谷古墳群という3基の古墳であり、中央の1基が前方後円墳であるため、細長く土塁状に見えているものである。

川崎市や専修大学日本大学により2012年度(平成24年度)~2016年度(平成28年度)に実施された発掘調査では、古墳の周溝と見られる溝状遺構が確認され、埴輪片なども出土したものの、古墳を土塁に転用した痕跡など、城郭の存在を示すような成果は報告されていない[4]。また中原養護学校の建設時にも発掘調査が行われているが、縄文時代古墳時代にかけての集落遺構は発見されているものの(神庭遺跡)、城郭関連遺構が発見されたという報告はなく[5][注釈 1]、現存する城の遺構は考古学的方法では特定されていない。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 中世の遺構として地下式坑のみ発見されているという(高久健 2017, p. 14)。

出典[編集]

  1. ^ a b 大類 1967 pp.80
  2. ^ 平井 2017 pp.3
  3. ^ 児玉・坪井 1980
  4. ^ 土生田純之, p. 2016.
  5. ^ 高久健 2017.

参考文献[編集]

  • 大類伸 監修 1967 『日本城郭全集』第4集 人物往来社
  • 児玉幸多坪井清足 監修 1980 『日本城郭大系第6巻 千葉・神奈川』新人物往来社
  • 土生田純之川崎市蟹ヶ谷古墳群の発掘調査」『人文科学年報』第46巻、専修大学人文科学研究所、2016年3月、1-20頁、CRID 1390009224825991808doi:10.34360/00007513ISSN 0387-8708NAID 120006793662 
  • 高久健二「川崎市蟹ヶ谷古墳群の発掘調査と神庭遺跡」『人文科学年報』第47巻、専修大学人文科学研究所、2017年3月、1-20頁、CRID 1390009224825994624doi:10.34360/00007528ISSN 0387-8708NAID 120006793670 
  • 平井誠二 2017 「港北のお城と館 -その1、中田加賀守館-(シリーズ わがまち港北 第226回)」『楽・遊・学』横浜市港北区区民活動支援センター