中原知親

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中原 知親
時代 平安時代後期
生誕 不明
死没 不明
別名 朝親[1][注 1]
官位 従五位下左衛門尉
氏族 中原氏
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中原 知親(なかはら の ともちか)は、平安時代後期の貴族・学者。

略歴[編集]

鳥羽院政中期の久安2年(1146年文章生から右少史に任官し[3]、翌久安3年(1147年)左少史・右大史を経て、同年12月に従五位下叙爵[4]。のち、仁平2年(1152年右兵衛少尉保元2年(1157年左衛門少尉武官を歴任した[5][6]。学者として名高く、多くの者が師事したという[1]。また、文筆の能力を買われて摂家文殿にも仕えた[7]

後年伊豆国に下向しており、伊勢外宮領だった蒲屋御厨(現静岡県下田市南伊豆町)に住んで目代を務めていたが、治承4年(1180年)8月の源頼朝の挙兵に遭遇する。頼朝は伊豆国衙目代で知親の親戚だった山木兼隆を討ったが、まもなく蒲屋御厨での民衆への非行を頼朝より咎められ、以仁王宣旨を盾に知親は同地奉行の権限を停止させられた。これが頼朝政権における最初の土地に関する下知だった[7][8][9]寿永2年(1183年源義仲によって院近臣40余名が解官させられたが[10]、その中に左衛門尉だった知親も含まれている[11]

人物・逸話[編集]

人より顔が長かったため「面長進士」とあだ名されたという。また、藤原忠通に仕えていたころの話として、ある外出時に輿の屋根が低かったため烏帽子を外していたところ、道中で忠通の行列と遭遇したため輿を下りて道を空けたが、烏帽子を外していることを忘れたまま往来の場で平伏したため[注 2]、忠通の随身たちに大笑いされたという(『十訓抄』)[1][7][注 1]

官歴[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 十訓抄』における「史大夫朝親」を藤原朝隆の子・朝親とする説もある[2]
  2. ^ 当時の成人男子は頭部を露わにすることが大きな恥だった[12]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 五味文彦 著「中原知親」、朝日新聞社 編『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版、1994年。ISBN 9784023400528 
  • 永井晋 編『官史補任』続群書類従完成会、1998年。ISBN 4797106581 
  • 浅見和彦 編『十訓抄』小学館〈新編日本古典文学全集〉、1997年。ISBN 4096580511 
  • 「静岡県の地名」編集委員会 編「蒲屋御厨」『静岡県の地名』平凡社日本歴史地名大系〉、2000年。ISBN 4582490220 
  • 福田美也子「源義仲」『国史大辞典』 13巻、吉川弘文館、1992年。ISBN 4642005137 
史料