ルイーズ・エリザベート・ド・フランス

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ルイーズ・エリザベート アデライド・ラビーユ=ギアール画 1788年
ルイーズ・エリザベート
ルイーズ・エリザベートと娘・イザベラ

マリー・ルイーズ・エリザベート・ド・フランスMarie-Louise-Élisabeth de France, 1727年8月14日-1759年10月6日)は、パルマ公フィリッポスペイン語名フェリペ)の妃。イタリア語名ルイーザ・エリザベッタ・ディ・フランチア(Luisa Elisabetta di Francia)。

フランスルイ15世と王妃マリー・レクザンスカの長女として、ヴェルサイユで生まれた。双子の妹アンリエットがいる。誕生時から「マダム・プルミエール」(Madame Premiere)と呼ばれたが、父からはバベット(Babette)と呼ばれていた。1739年2月、スペイン王子フェリペ(フェリペ5世と王妃イサベルの次男)との婚約が発表された。政治的・軍事的なカトリック勢力の結びつきを強める目的で、フランス・スペイン間の政略結婚は伝統となっていた。ルイーズ・エリザベートはヴェルサイユを出発し、同年10月、アルカラ・デ・エナーレスでフェリペと結婚した。

夫との結婚生活は不幸だった。スペイン宮廷は、フランス宮廷より儀礼的で厳格であり、ルイーズ・エリザベートは自分も義母イサベルに支配されていると感じた。彼女は人形遊びで一日の大半を過ごし、14歳で生んだ長女マリア・イザベラを甘やかした。ルイーズ・エリザベートは、自分の不幸な状況を手紙で父に伝えた。

フェリペの妹、マリア・テレサはルイーズ・エリザベートの兄ルイ・フェルディナン王太子の元へ1745年に嫁いでいった。両家の二重結婚も珍しいことではなかった。[1]

1748年、ルイーズ・エリザベートはスペインから避難することができた。エクス・ラ・シャペル条約によりオーストリア継承戦争が終結し、マリア・テレジアは夫フランツの神聖ローマ皇帝位を認めさせる代わりに、パルマ・ピアチェンツァグアスタラの公位を仇敵フェリペ5世へ渡した。ルイ15世の介入により、パルマ公位はフェリペとルイーズ・エリザベートのものになった。1748年12月にルイーズ・エリザベートはパルマ経由でヴェルサイユを訪れ、父に感謝を伝えた。この滞在時に、ルイーズ・エリザベートは寵姫ポンパドール夫人を知った(ルイ15世の寵姫全てを嫌った母マリーや他の兄弟姉妹とは違い、ポンパドール夫人に好感を持った)。1749年にパルマへ帰国すると、彼女はフランス宮廷の儀礼や料理を持ち込んだ。

1752年に、双子の妹アンリエットが亡くなったため、フランスを訪問し妹の墓のあるサンドニ修道院を詣でた。数週間の滞在のつもりだったが、結局1年あまりのヴェルサイユ滞在となった。

ルイーズ・エリザベートはマリア・テレジアと同盟し、長女マリア・イザベラをヨーゼフ大公(のちのヨーゼフ2世)へ嫁がせた。

1759年、ヴェルサイユ滞在中にルイーズ・エリザベートは天然痘に罹患し、12月に急死した。彼女はサン・ドニ修道院の妹アンリエットの隣に埋葬されたが、2人の墓はフランス革命の最中に荒らされた。

子供[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 長女マリア・イザベラ、長男フェルディナンドもハプスブルク=ロートリンゲン家との二重結婚だった。
  2. ^ 兄フェルディナンドが1751年1月生まれであるのに対し、マリア・ルイーザは同年12月生まれである。