ヨセフ・ディーツゲン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヨセフ・ディーツゲン
切手
切手
生誕 1828年12月9日
ドイツ連邦 ノルトライン=ヴェストファーレン州ケルン近郊
死没 (1888-04-15) 1888年4月15日(59歳没)
アメリカ合衆国 イリノイ州シカゴ
時代 19世紀の哲学
地域 西洋哲学
研究分野 認識論論理学弁証法
主な概念 唯物弁証法
署名
テンプレートを表示

ヨセフ・ディーツゲンJoseph Dietzgen1828年12月9日1888年4月15日)は、ドイツの独学の社会主義者にして哲学者マルクス主義の創始者の一人に数えられることもある。

カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスとは別個に弁証法的唯物論に到達した。彼の諸著作はウラジーミル・レーニンや多くの革命家たちに大きな影響を与えたが、今日ではその影響力はほとんど忘れ去られている。

来歴[編集]

ドイツのケルン近郊ブランケンベルクに生まれる。父は鞣革業。鞣革工として働く傍ら文学経済学、哲学などの研究に勤しむ[1]。1845年から1849年の間に独学でフランス語を学び、フランス経済学者の研究を通じて社会主義に傾倒し、『共産党宣言』(マルクスエンゲルスの共著)への出会いを契機に明白な社会主義者となる[1]。1848年には三月革命に参加し、翌年アメリカに亡命する。そこで鞣革工、ペンキ職、教師等の労働に携わりながら各地を放浪し、その間に英語を取得した[1]。1851年、ドイツに帰国し2年後には妻を持つ。1859年には再び渡米し南部地方に住む。1861年、南北戦争が始まると北軍に同情しドイツに帰国する。1863年から1869年にかけて、ロシアサンクトペテルブルクの官営製革場に監督として招かれた[1]。1869年に一度帰国し、ジークブルクで工場を経営する。後に再びサンクトペテルブルクを訪れた[1]。ロシア滞在期には『人間の頭脳労働の本質』を書いている。1878年に社会主義者鎮圧法で3カ月投獄される。

1884年、渡米しニューヨークにおいてアメリカ社会党機関紙『社会主義者』の主筆となる。1886年、シカゴに移る[1]

主な著作[編集]

  • Das Wesen der menschlichen Kopfarbeit, 1869, (人間の頭脳労働の本質)
  • "The Religion of Social Democracy"
  • "Scientific Socialism" (1873).
  • "The Ethics of Social Democracy" (1875).
  • "Social Democratic Philosophy" (1876).
  • "The Inconceivable: a Special Chapter in Social-Democratic Philosophy" (1877).
  • "The Limits of Cognition" (1877).
  • "Our Professors on the Limits of Cognition" (1878).
  • "Letters on Logic" (addressed to Eugen Dietzgen) (1880-1884).
  • "Excursions of a Socialist into the Domain of Epistemology" (1886).
  • "The Positive Outcome of Philosophy" (1887).

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 戸坂潤「1『経済学大辞典』」『戸坂潤全集 別巻』勁草書房、1979年、3-5頁。 戸坂潤の著作物はパブリックドメインの状態にある。)

外部リンク[編集]