マヌーチェフル・モッタキー
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(モッタキから転送)
マヌーチェフル・モッタキー منوچهر متکی | |
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2008年のスイス、ダヴォスにおける世界経済フォーラムに出席したモッタキー | |
生年月日 | 1953年5月12日(71歳) |
出生地 | イラン、バンダレ・ギャズ |
所属政党 | イスラーム技術者集団 |
称号 | 旭日大綬章 |
第11代 イラン・イスラム共和国外務大臣 | |
在任期間 | 2005年8月24日 - 2010年12月13日 |
大統領 | マフムード・アフマディーネジャード |
マヌーチェフル・モッタキー[1](ペルシア語: منوچهر متکی; Manūchehr Mottakī; 1953年5月12日 -)は、イランの政治家で外交官。
人物
[編集]ゴレスターン州、カスピ海沿岸の港湾都市バンダレ・ギャズ市出身。
インドのバンガロール大学の社会科学分野の学士号(1976年)、テヘラン大学の国際関係分野の修士号(1991年)を有する[2]。英語、日本語、ウルドゥー語及びトルコ語を話す。
1980年、第1期マジュレス(議会)代議員に選出された。1984年から外交官。1995年から1999年にかけて、駐日本特命全権大使を務めた経験を持っている[2]。
大統領のマフムード・アフマディーネジャードによる推薦を受けて閣僚候補者として挙がり、2005年8月24日、閣僚承認投票284票のうち賛成220票を獲得してイラン外相に就任[3]。
2010年12月13日、セネガルを訪問中にアフマディーネジャードより解任。イランの核開発問題に関しての措置と見られている[4]。
略歴
[編集]- 1984年 - 1985年 - 外務省第7政治局長[2]。
- 1985年 - 1988年 - 駐トルコ特命全権大使[2]。
- 1988年 - 1989年 - 外務省西欧局長[2]
- 1989年 - 1993年 - 国際問題担当外務次官[2]
- 1993年 - 1995年 - 法務・協議・議会問題担当外務次官
- 1995年 - 1999年 - 駐日本特命全権大使[2]
- 2000年 - 2001年 - 外相顧問[2]
- 2001年 - 2004年 - イラン・イスラム文化・宗教関係組織の次官[2]
- 2004年 - 第7期議会代議員、議会対外政策・国家安全保障委員会委員長[2]
- 2005年 - 2010年 - 外務大臣[2][4]
モッタキーは、核開発に関して、欧州連合諸国との交渉に厳格に反対している。以前、彼は、核問題で譲歩してはならないと表明したことがある。
出典
[編集]- ^ 最後の長母音を省略してマヌーチェフル・モッタキ、あるいは単にモッタキとも。
- ^ a b c d e f g h i j k 外務省: マヌーチェフル・モッタキ外務大臣略歴
- ^ Iran: 17 proposed ministers receive votes of confidence, 4 rejected - 2005年8月25日
- ^ a b イラン大統領がモッタキ外相を解任、原子力庁長官が暫定兼務 - ロイター - 2010年12月13日
- ^ 旭日大綬章に坂本剛二氏ら=俳優の大村崑さん小綬章-秋の叙勲 時事通信 2017年11月3日
外部リンク
[編集]- 外務省: マヌーチェフル・モッタキ外務大臣略歴
- イラン外相電撃解任を考える - 2010年12月18日
公職 | ||
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先代 キャマール・ハッラーズィー |
イラン・イスラム共和国外務大臣 第11代:2005~2010年 |
次代 アリー・アクバル・サーレヒー |
先代 モハンマド・ガンジードゥースト |
駐トルコ・イラン・イスラム共和国大使 1985~1988年 |
次代 モハンマドレザー・バーゲリー |