ヨーゼフ・フェルディナント (アストゥリアス公)
ヨーゼフ・フェルディナント Joseph Ferdinand Leopold von Bayern | |
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アストゥリアス公 ジローナ公 | |
ヨーゼフ・フェルディナント(ヨーゼフ・ヴィヴィアン画) | |
在位 | 1698年 - 1699年 |
出生 |
1692年10月28日 神聖ローマ帝国 オーストリア大公国、ウィーン、ホーフブルク宮殿 |
死去 |
1699年2月6日(6歳没) スペイン領ネーデルラント、ブリュッセル |
埋葬 | スペイン領ネーデルラント、ブリュッセル、サン・ミッシェル大聖堂 |
家名 | ヴィッテルスバッハ家 |
父親 | バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエル |
母親 | マリア・アントニア・フォン・エスターライヒ |
ヨーゼフ・フェルディナント・レオポルト・フォン・バイエルン(ドイツ語: Joseph Ferdinand Leopold von Bayern, 1692年10月28日 - 1699年2月6日)は、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルの子。母はその最初の妃である、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の娘マリア・アントニアである[1]。アストゥリアス公(スペイン王太子)となり、スペイン語名ではホセ・フェルナンド・デ・バビエラ・イ・アウストリア(José Fernando de Baviera y Austria)と呼ばれた。異母弟に選帝侯位を継ぎ、神聖ローマ皇帝にもなったカール7世と、ケルン大司教、ドイツ騎士団総長に就任したクレメンス・アウグストがいる。
概要
[編集]スペイン継承戦争前、ヨーゼフ・フェルディナントはイングランド・ネーデルラント共和国に次期スペイン王位継承者として推されており、スペイン王カルロス2世もヨーゼフ・フェルディナントをアストゥリアス公に叙して、正式に後継者としていた。ヨーゼフ・フェルディナントの母方の祖母がカルロス2世の同母姉マルガリータ・テレサであったことから、最も血縁が近かったためである。加えて神聖ローマ皇帝レオポルト1世が母方の祖父、フランス王太子ルイの妃マリー・アンヌが父方の伯母という血縁関係もあった。
しかし1699年、ヨーゼフ・フェルディナントは天然痘により[2]わずか6歳で早世した[3]。そのため、イングランドとフランスの間で条約が結ばれ、フランスのアンジュー公フィリップ(後のフェリペ5世、ルイ14世とカルロス2世の異母姉マリア・テレサの孫で、マリー・アンヌの子、ヨーゼフ・フェルディナントの従兄)がナポリ、シチリア、ミラノを得、スペインの支配権はレオポルト1世の次男カール大公(後のカール6世、ヨーゼフ・フェルディナントの母方の叔父)に与えるとしたが、これを不服としたレオポルト1世、ルイ14世は条約を破棄、両者の争いはスペイン継承戦争に発展した[4]。その結果、アンジュー公のスペイン王位継承が承認された。
脚註
[編集]- ^ Mitchell, Silvia Z. (2013). Mariana of Austria and Imperial Spain: Court, Dynastic, and International Politics in Seventeenth-Century Europe (Doctor of Philosophy (PhD) thesis). p. 411. 2023年11月21日閲覧。
- ^ McGuigan, Dorothy Gies (1966). The Habsburgs. New York: Doubleday & Company. p. 213 21 November 2023閲覧。
- ^ Spielman 1977, p. 173.
- ^ Wheatcroft, Andrew (1996). The Habsburgs: Embodying Empire. London: Penguin Books. p. 204 21 November 2023閲覧。
参考文献
[編集]- Spielman, John Philip (1977). Leopold I. London: Thames and Hudson
関連項目
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