ヒポクラテス崇拝

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吉田義之(1908年)『人寿説』より、「小彦名命、炎帝神農氏及びヒポクラテスの肖像」。

ヒポクラテス崇拝(ヒポクラテスすうはい)は、江戸期以降の日本における、西洋医学の祖であるところのヒポクラテスを信仰の対象とする習俗のことである。

旧来の日本において、漢方医は中国神話神農や、日本神話大己貴神少彦名神といった薬祖神を祀ることが多かったが、これに対して新興勢力の蘭方医は、ヒポクラテスを自らのシンボルとして用いた。江戸期の日本においては神農画が多く描かれたが、幕末から明治期にかけてはその延長上のものとしてヒポクラテス画が描かれ、信仰の対象となった。

日本における薬祖神[編集]

薬祖神祠。神農・少名彦・大己貴命に加え、ヒポクラテスを祭神として扱っている。

ヒポクラテス崇拝以前より、日本においては医療の始祖と語り継がれる各種の神(薬祖神)が信仰されてきた。伝統的に信仰されてきた薬祖神は、中国神話神農であり、日本神話大己貴神少彦名神もまた同様に崇敬されることがあった[1]

神農は古代中国の伝説上の帝王で、三皇のひとりであるとされているものの[2]、おそらく当初はの地方神であったのではないかと考えられている[3]。文献上の初出は『孟子』であるが、これは戦国時代許行英語版なる人物が神農の教えに従い、民も君主もともに農耕に従事すべきであると主張したという記述であり、これにおける神農がいかなる人物であったかについては詳述されていない。漢代の『緯書』には、神農は竜ないし牛の頭を有する奇怪な姿をしており、民に農業や養蚕、商業、そして医学を教えた人物であるという記述がある[4]。『淮南子』には「始めて百草を嘗め、始めて医薬あり」との記述がある。司馬貞による『史記』三皇本紀には、神農はさまざまな毒や薬を舐めて作物や薬草の発見に勤め、農業および医学の始祖となったという旨の記述がなされている。こうして神農は薬祖神として信仰されるようになった。たとえば、晋代の『帝王世紀』には、神農は医者と薬売の神であると記述されている[3]

日本にも神農について記した医学書は渡来していたものの、少なくとも平安期までにおいて神農を祭祀の対象とする伝統はなかったものとみられている。鎌倉幕府成立前後に輸入され、本草学の規範となった版『証類本草中国語版』諸序には神農についての記述があり、小曽戸洋によれば、同書が日本における神農崇拝の契機となったのではないかと考えられる。また、同時期に日本に普及した『太平御覧』『医説』といった中国本草書にも神農についての記載があった。弘安7年(1284年)の『医談抄』には神農が本草の祖として明記され、同10年(1287年)には現存する最古の神農画である『馬医草紙』が描かれている。王履中国語版1367年に『医経溯洞集』を執筆し、その巻頭に「神農嘗百草論」をおいたが、この書は中国のみならず日本や朝鮮をふくむ東アジア圏において、神農の薬祖神としての性質を強調させるうえで大きな役割を果たした。同書は熊宗立が上梓した医学叢書であり、日本にも多く輸入された『東垣十書』にも収録され、室町期から近世における日本医学を基礎づけるものとなった。また、熊が出版した『歴代名医図讃』は、日本における神農画流行のきっかけとなった。安土桃山期から江戸期にかけての日本では神農画を描く文化が定着し、特に江戸期においてはおびただしい数の神農画が描かれた[5]。また、日本各地に神農講が形成され、神農祭がとりおこなわれた[3]

大己貴神・少彦名神は日本神話の神であり、『日本書紀』には両者が協力し、民と家畜の病の治療法を定めたという旨の記述がある[6][7]。この2神を祭神とする大洗磯前神社五條天神社は薬種業者の崇敬を集めてきた[1]大阪道修町少彦名神社安永9年(1780年)に同地の薬種業者が五條天神社を分霊して建立した神社であり、祭神として少彦名神および神農を祀っている[8]

西洋医学の導入とヒポクラテス崇拝の形成[編集]

市川岳山筆『芝蘭堂新元会図』(重要文化財早稲田大学図書館所蔵)
渡辺崋山筆『ヒポクラテス像』(九州国立博物館所蔵)

ヒポクラテスは紀元前5世紀から4世紀にかけて活動した古代ギリシャの医師で、伝統的に西洋医学の父であると考えられてきた人物である[9]。日本への西洋医学の導入は江戸期、長崎オランダ商館を通じておこなわれた。当時のオランダ商館の医師については『オランダ商館日記』に記録が残り、オランダ人医師は、初期より日本人患者を診療したり、または医薬に関する日本人の質疑に応じたことがわかっている。蘭学者杉田玄白前野良沢は安永3年(1774年)に『解体新書』を上梓した。これははじめて邦訳された西洋医学書であり、日本人の西洋医学に対する関心を高めるにあたって大きな影響を残した[10]

文献上、日本においてはじめてヒポクラテスが紹介されたのは、寛政10年(1798年)のことであり、大槻玄沢が『重訂解体新書』において、ヨハン・アダム・クルムスターヘル・アナトミア』の脚注として記載されていた彼の略伝を訳出したのがそのはじまりである[11]。これには異説もあり、寛政6年(1794年)、江戸の蘭学者が集まりとりおこなった「オランダ正月」を描いた『芝蘭堂新元会図』をみると、背景にはすでにヒポクラテス画が飾られているようにみえる[12]。しかし、宴席を開いた人物である前野が、寛政11年(1799年)にはじめてヒポクラテスの肖像画を見たと日記にのこしていること、中国医学を厳しく批判していた彼が漢方医の模倣をするとは考えがたいことから、この画像はヒポクラテスではなく、当時前野が翻訳をおこなっていた『瘍医新書』の著者である、ローレンツ・ハイスターの肖像であろうと考えられている[13]

当時の蘭方医は、神農画と同様にヒポクラテス画を描かせるようになった[11]。翌寛政11年(1799年)には、大槻が石川大浪にヒポクラテスの肖像画を模写させたが、これが日本において描かれたはじめてのヒポクラテス画であると考えられている。大槻はこの画において、自分の家は代々漢方をおさめ、神農と黄帝の二聖の像を掲げてきたが、自分の代からは西洋医学を専門とすることになったため、かわりにヒポクラテスの画像を掲げるようにしたという讃をつけている[14]。こうした意識は当時の蘭方医の多くが持っていたようで[14]、彼らは従来の漢方医が神農を祀ったことに対抗して、西洋医学の祖であるヒポクラテスを崇め、自らのシンボルとして用いた[11][15]芝哲夫によれば、当時の医師はヒポクラテス画を神農信仰の延長上に置き、掛け軸に仕立ててその礼拝を怠らなかったという[3]。当時、多くのヒポクラテス画を描いた人物としては、徳川将軍家侍医であった桂川甫賢が知られている。彼の描いたヒポクラテス画のうち現存するものは、2021年現在において9点が知られている[11]。また、渡辺崋山天保11年(1840年)に描いた『ヒポクラテス像』は、重要美術品に指定されている[16]

京都二条の薬種業者は、神農・少名彦・大己貴命に加え、ヒポクラテスを祭神として扱ってきた。同地の同業者組合が設立した薬祖神祠は、元来神農・少名彦・大己貴命のみを祀るものであったが、明治13年(1880年)に祠を移設する際、欧州からも薬を輸入するようになっていた時節の関係上、「西洋の神も必要である」という判断からヒポクラテスが合祀された[17]

出典[編集]

  1. ^ a b 水沢利忠「農家の神農から医薬の神農まで」『斯文』第93巻、1987年、12-31頁。 
  2. ^ ブリタニカ国際大百科事典『神農』 - コトバンク
  3. ^ a b c d 芝哲夫「杏雨蔵書にみる医学の歴史(1) ~神農像~」『実験治療』第649巻、1997年、45-48頁。 
  4. ^ 日本大百科全書『神農』 - コトバンク
  5. ^ 小曽戸洋「近世日本の医薬界における神農画賛流行の背景」『日本医史学雑誌』第40巻第3号、1994年、333-334頁。 
  6. ^ ウィキソース出典 舍人親王 (中国語), 日本書紀/卷第一, ウィキソースより閲覧, "夫大己貴命與少彥名命。戮力一心。經營天下。復爲顯見蒼生及畜產。則定其療病之方。" 
  7. ^ 木村彥右衞門「藥祖神としての少彥命の位置」『本草』第2巻、1932年、40-43頁。 
  8. ^ 加藤紫識「日本の都市における同業者集団の信仰(第394回例会報告)」『比較都市史研究』第29巻第1号、2010年、2-3頁。 
  9. ^ Hippocrates | Biography, Works, & Facts | Britannica” (英語). www.britannica.com. 2024年1月4日閲覧。
  10. ^ 大鳥蘭三郎「オランダ医学」『国史大辞典』吉川弘文館。 
  11. ^ a b c d 松田清「桂川甫賢筆ヒポクラテス像の賛、新出二種の典拠について」『神田外語大学日本研究所紀要』第13巻、2021年、63-104頁。 
  12. ^ クラウス・クラハト,克美・タテノ=クラハト『鴎外の降誕祭: 森家をめぐる年代記』NTT出版、2012年、62-63頁。 
  13. ^ レイニアー・ヘスリンク,矢橋篤(訳) (2000). “芝蘭堂のオランダ正月 1795年1月1日”. 早稲田大学図書館紀要 47: 101-151. 
  14. ^ a b 緒方富雄『日本におけるヒポクラテス賛美 : 日本のヒポクラテス画像と賛の研究序説』日本医事新報社、1971年、91頁。 
  15. ^ 宇田川榕庵 ヒポクラテス像”. www.wul.waseda.ac.jp. 2024年1月4日閲覧。
  16. ^ ヒポクラテス像 文化遺産オンライン”. bunka.nii.ac.jp. 2024年1月4日閲覧。
  17. ^ 「ふるさと昔語り(23)薬祖神祠(京都市中京区) 薬問屋 繁栄願う」『京都新聞』、2007年1月10日、朝刊。