ノート:アンネのバラの教会/過去ログ1

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初版立項にあたって

  • 教会にはホームページがありますが、無断利用・無断リンクはお断りなようですので、記事では一切ここからは書きませんでした。
  • 教会の掲示板には特にリンクを断る記載は見当たらなかったので、こちらを張りました。
  • 主要な出典のひとつは『アンネ・フランクのバラ』の書籍です。
  • ネットの情報は数年後に消えてしまう可能性があるのでなるべく書籍や新聞から書こうと思いましたが、アンネのバラは頻繁に取り上げられるのに対し教会は時折取り上げられるといった感じで『アンネ・フランクのバラ』の書籍頼りになりがちですが、これは詳しく書かれているためアンネのバラを書いた際は1行ごとにページ数を書いて出典をつける状況になり、こちらの記事ではそれはやりたくないと思いました。「街レポ」の5月12日放送は西宮市提供でインタビューに答えているのは当事者の高橋牧師(現在は後任者になっている)と証拠能力が高く、良くまとまった内容で記事にしやすかったので、こちらの番組内容をMP3で聴き取った物を出典に用いています。もし「街レポ」がリンク切れになりましたら、お手数ですが『アンネ・フランクのバラ』の書籍から同趣旨の内容を書く等で対処をお願いします。(自分でできる場合は自分で行います)
  • 団体の場合は車椅子で見学可能な事は確実(無断リンクお断りな方の教会のホームページにある申し込みの書式の記載より判断)ですが、一般の個人の場合は車椅子で見学可能か、はっきりわかりません。分からなければ面倒だから消せという意見もありましょうが、ユダヤ人の差別を非難する一方で障碍者を差別したのではナチス・ドイツのT4作戦の精神態度と大差無いので、できましたら識者の皆様による内容強化をお願いしたく思います。
  • 私が近畿在住者ではではなく未訪問なため、いささか不安な点もありました。調べた結果、
  • 2階がアンネ・フランク資料館で、見学には予約が必要、土曜の1時から5時、教会の行事都合により閉館の場合もある。
  • 1階が礼拝堂。企画展はこのスペースを利用して行う。見学時間は9時から5時。ただし礼拝が行われる10時からは見学できない。
  • 教会の庭が「アンネの庭」。杖や車椅子で庭を散策しバラが見れるのか(恐らく無理)
かなと思いますが、何か混同しているかもしれません。書籍・新聞・ネットで調べてそれに基づき記載できる範囲でしか書けないので、はっきり断言した書き方になっていません。

以上、よろしくお願いします。--114.181.43.133 2014年12月6日 (土) 09:11 (UTC)

WP:NOTGUIDE とのご指摘について

  • 教会には無断で立項しているので、マスゴミと揶揄されるような書かれた側の迷惑を顧みない態度はふさわしくないと思い、教会の迷惑にならないようにという「人間としてのルール」を最優先に考え、Wikipediaのルールはその次に守る事にしました。一番、恐れていたのは記事だけ見て見学に行き教会に迷惑をかける人が現われないかです。教会は専門の博物館ではなく、あくまで日時を限定し好意で見学させてくれるに過ぎないので訪問の際には特別な注意点が必要になるので、あえて書いたのはそのためです。もし書かないなら、記事を見てカーナビに場所を入れて車で向かい路上駐車して近隣住民から教会に対して苦情が寄せられる、礼拝中など見学できない日時に訪問したのに来たのだから見せろと強要するなど、教会に迷惑がかかる状況が記事の立項により生じ得ると予想すべきです。既にバラの開花時期にはマスコミの取材が相次ぎ多忙になるとの事ですので、基本的な訪問の際の注意点も知らずに教会側に問い合わせて一から説明しなければいけない見学希望者がこの記事のせいで増加し余計な手間をかけさせるのも避けるべきと考えました。
  • 矛盾しているようですが、Wikipedia:出典を明記するに「読者がさらに調べるときの参考になる」というのがあり、教会は資料館も運営しているので、アンネ・フランクについて学ぶ上で資料館を見学するのは有効な手段と思い、この記事で紹介したリンクなどを参照してもらい迷惑をかけずに資料館を訪問できるように、と思いました。逆に、この記事を見ても資料館の訪問の仕方が一切判らないというのでは立てる意味がないと考えました。
  • 部外者としては「何が見れるのか」が関心の中心になると思い、それについても記しました。
  • 車椅子での訪問に関して書いたのは、生きるに値しない命のような考えは微塵たりとも持ち込みたくなかったからです。

教会について詳しいわけではないですし、「勝手にウィキペディアに書かれたおかげで当教会は大迷惑」などという事態は避けたいと思い、立項もためらったのですが、アンネのバラと関連が深いので赤リンクにするのもと思い色々思案の末、あえて訪問の際の注意点を書き問題の予防に努めましたが、「記事が原因で教会に迷惑をかけない」という大前提でより良い提案があればどうかご教授願います。--114.181.43.133 2014年12月9日 (火) 00:13 (UTC)

導入部を変更しました

「日本の兵庫県西宮市にある、」を削除しました。理由ですが、

  • テンプレートの {{Infobox church に、国は日本、場所は兵庫県西宮市甲陽園西山町4-7と書いてある。
  • 「西宮市のバラの名所のひとつ」というのは、説明の構成上、どうしても外せない。
  • 西宮市は日本で人口が29番目に多い市なので、近畿在住者でなくてもそれなりに知名度はあるのではないか (兵庫県かどうかはともかく、神戸の近くというイメージはあるのでは)
  • 西宮市が日本の都市ではなく、中国や韓国のどこかと考える人は居ないのではないか (いたとしてもテンプレートを見れば分かる)

という事で、せっかく「日本の兵庫県西宮市にある、」を追記してくださったのに恐縮ですが、これですと「西宮市」が冒頭で3回出てくるので、繰り返しが多いと判断して削除しました。

同様に、「キリスト教の教会で」から「キリスト教の」を削除しました。テンプレートに教派は聖イエス会と書いてあり牧師の名前も記されていますし、カテゴリに「日本にあるプロテスタントの教会」と「兵庫県にあるキリスト教の教会」があります。プロテスタントはキリスト教というのは常識と考えれば、これでアンネのバラの教会は「キリスト教の」が3回の繰り返しになり多すぎると判断しました。

元の内容を重複させて「いにしえの昔の武士の侍が、馬から落ちて落馬して」のように文面を書き換えるより、何か調べて内容面で強化をしていただければうれしく思います。 --114.180.131.173 2015年2月28日 (土) 07:08 (UTC)

テンプレートに書かれているからといって、冒頭の記述を省いて良いわけではありませんので、加えなおしました。こういうものは「繰り返し」にはあたりません。カテゴリについても同様です。冒頭で文章により明確に定義するということを軽視しすぎです。--モンゴルの白い虎会話2015年3月23日 (月) 12:40 (UTC)
  • コメントコメント依頼からまいりました。率直に言うと「どちらでもいい」「争うほどのことではない」「コメント依頼を出すほどの状況でもない」という印象です。IPさんがおっしゃることもそんなにおかしなことではないと思います。ひどく厳密には、この教会の最大の特徴をたった1点だけ12文字以内で述べよ、といった時に、「世界唯一のアンネ・フランク」をとるのか、「西宮のバラの名所」をとるのか、あるいは「キリスト教の教会」を選ぶのか、どっちだ、という次元になった場合にはよくよく考えなければならないですが、冒頭文でたった1点だけ12文字以内で述べなければならないわけではないので、3属性を併記してもいいようには思います。
むしろ内容面でしょう。「見学の際の注意」「バラの棘が引っかからないように荷物はベンチに置く」「開花期以外はバラは見れない」などは、ちょっとどうだろうという感じがします。--柒月例祭会話2015年3月23日 (月) 17:34 (UTC)
  • 柒月例祭さん、コメントありがとうございます。少し補足させてください。ノートにあるように教会に無断で立項しているので、教会が訪問者に依頼している注意点を削除するのは、記事が原因で教会に迷惑がかかる恐れを高める変更になります。健康な人なら関係無いと思われる事でも、年配の人や障碍をお持ちの方だと関係してきます。リンクなどをご覧いただければ分かりますが、教会は「ここまで来たのにバラが見れないのか」のような事を言う人にまで備えなければいけない現状があります。お目こぼしを願えれば幸いです。-- 114.181.36.77 2015年4月1日 (水) 00:07 (UTC)
  • 反対  これでコメント依頼が出されるというのが理解できなかったので提案者の履歴を拝見しました所、『アンネのバラの教会』の記事に限定されない深刻な問題が多々ありましたので、それについては利用者‐会話:モンゴルの白い虎#教会記事の導入部の議論も参照願います。この記事に対するコメント依頼だけでも問題大ありですので以下に「コメント依頼に関連して」の節を設けましたので併せて参照願います。
    導入部は「記事の顔」で非常に重要な部分です。ウィキペディには読みきれないほどの記事があり、Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)にも「導入部だけを読むことも多い。その記事をさらに読もうという興味を引き出すことが推奨されます」とある通りで、簡潔でパッと見て興味をそそり本文を読もうという気にできない導入部では中身まで読んでもらえず、記事の存在価値も失せます。私が同時期に立項した『アンネのバラ』も、記事作成時には導入部に相当の時間をかけ幾度も推敲しました。興味深い導入部にしなければ月間新記事賞の候補になる事もなかったでしょう。この事は、私の導入部分の書き方が一定の評価を得られた事を客観的に示しています。この記事は内容・分量的に新記事賞の候補にはならないのは分かっていましたが、それでも工夫を凝らし「読んでもらえる導入部」にするよう苦心しました。一方、モンゴルの白い虎さんは「書き手」ではないためWikipedia:スタイルマニュアル (導入部)の肝要な部分が全く理解できておらず、現在の冒頭文は読者が導入部を読んだだけで読むのを中止しかねない悪文で賛成のしようがありません。テンプレートの使い方を知らない事は記事の劣化にしかならない書き換えを正当化しません。日本時間4月15日24:00(16日00:00)まで待ってもコメント依頼に対する賛成少数で同意得られずなら「アンネのバラの教会は、世界で唯一のアンネ・フランクを記念する教会でアンネ・フランク資料館を運営する。」に戻すことを提案します。-- 114.181.36.77 2015年4月1日 (水) 00:07 (UTC)

コメント依頼に関連して

モンゴルの白い虎さんの2月より前の投稿記録を拝見しました所、本当に驚きました。記事を立項する事はなさらず、カテゴリの整備と移動、改名を中心に活動しています。ここまでにカテゴリに強烈にこだわるというのは、それはご自由かと思いますが、他人にまで同様の考えを要求する事柄ではないと思います。やはり百科事典としては「記事が主、カテゴリ分けは従」ではないでしょうか。記事のカテゴリがしっかり分けてあれば便利かもしれませんが、カテゴリの部分が重要かどうかは読者次第ですし、記事が無ければ百科事典は成り立ちません。ところがモンゴルの白い虎さんは、記事を良くするための「補足的」そして「手段」である、カテゴリの分類・系統立てに没頭するあまり、完全に手段が目的化してしまい、「カテゴリこそ命、記事など二の次」と言わんばかりの行動を取っており、非常に問題と思えます。今回のコメント依頼も、「冒頭で文章により明確に定義するということを軽視」を理由に挙げていますが、実際は違うようです。カテゴリ分けこそが最重要で、冒頭をカテゴリを念頭に置いた定型的な文面で書き換えるという編集を極めて多数の記事で行っていて、それに逆らう編集は一切、認めないという事です。

とりわけ今回のコメント依頼を理解する上で重要な点として、以下にサンプルを示します。

今回のコメント依頼を理解する助けになる2015年2月18日のモンゴルの白い虎さんの編集行動例
時刻 変更前 変更後
10:51 秋田楢山教会(あきたならやまきょうかい)は秋田市にある日本基督教団の教会である。 秋田楢山教会(あきたならやまきょうかい)は、秋田県秋田市にある日本基督教団の教会である。
10:53 池袋西教会(いけぶくろにしきょうかい)は日本基督教団の教会である。 池袋西教会(いけぶくろにしきょうかい)は、東京都豊島区池袋にある日本基督教団の教会である。
11:21 日本基督教団大分教会(にほんきりすときょうだんおおいたきょうかい)はメソジスト系の大分市の日本基督教団の教会である。 日本基督教団大分教会(にほんきりすときょうだん おおいたきょうかい)は、大分県大分市にあるメソジスト系の日本基督教団の教会である。
11:24 鹿児島加治屋町教会(かごしまかじやちょうきょうかい)は、鹿児島市にあるメソジスト系の日本基督教団教会である。 鹿児島加治屋町教会(かごしまかじやちょうきょうかい)は、鹿児島県鹿児島市にあるメソジスト系の日本基督教団教会である。
11:27 鹿児島教会(かごしまきょうかい)は鹿児島市にある日本基督教団の教会である。 日本基督教団鹿児島教会(にほんきりすときょうだん かごしまきょうかい)は、鹿児島県鹿児島市にある日本基督教団の教会である。
11:43 金沢元町教会(かなざわもとまちきょうかい)は1886年(明治19年)10月19日、日本基督教団金沢教会の信徒13名が設立した。 金沢元町教会(かなざわもとまちきょうかい)は、石川県金沢市にある日本基督教団の教会。
11:46 日下部教会(くさかべきょうかい)は日本基督教団の教会である。 日下部教会(くさかべきょうかい)は、山梨県山梨市にある日本基督教団の教会である。

これは、2015年2月18日にモンゴルの白い虎さんが、僅か1時間の間に行った編集のうち、今回のコメント依頼の真意を理解する点で参考になる類似の編集行動のみを表にしています。なおモンゴルの白い虎さんは、2月18日だけでも他に膨大な記事の書き換えをおこなっており、そして連日のように極めて多くの記事を書き換えています。

この記事におけるモンゴルの白い虎さんの変更点
日付 変更前 変更後
3月23日 アンネのバラの教会は、世界で唯一のアンネ・フランクを記念する教会でアンネ・フランク資料館を運営する。オットー・フランクから寄贈された アンネのバラの教会は、日本兵庫県西宮市にある聖イエス会の教会である。世界で唯一のアンネ・フランクを記念する教会で、アンネ・フランク資料館を運営する。アンネの父オットー・フランクから寄贈された

これを見れば、モンゴルの白い虎さんが記事の冒頭を書き換えた理由は明白です。「教会の記事は自分の流儀で揃えなければ気がすまない」というのに尽きるでしょう。「オットー・フランク」を「アンネの父オットー・フランク」に書き換えるというのも相当だとは思いますが。 (オットー・フランクがアンネの父だと説明を加えたほうが良くなると思う位なら手出ししない方が、という意味) モンゴルの白い虎さんはウィキペディアの全ての教会記事は自分が支配しなければ気がすまないようですが、教会以外にも膨大な記事に手出ししているので末恐ろしいです。

モンゴルの白い虎さんの会話ページで確認しましたが、プロジェクト:キリスト教では、「教会記事はこのような書き方に統一すべき」のようなガイドラインもありません。私が見た限りでは、教会記事の導入部に関しては話し合いも合意も何もなされていません。結局、このような書き換えはモンゴルの白い虎さんが良いと思って勝手にやっているだけの事です。

Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)に書かれているのを超えた内容を他者に要求していますので、これは「俺様ルールの押し付け」に他なりません。今回の『アンネのバラの教会』の記事に対して出されたコメント依頼は、色々理由を言ってはいますが、結局は「他人は自分のスタイルを100%、尊重せよ。他の書き方などは一切、容赦しない」という意思に他なりません。

「テンプレートに書かれているからといって、冒頭の記述を省いて良いわけではありません」とは聞こえがいいですが、モンゴルの白い虎さんの会話ページで確認しましたが、実際はモンゴルの白い虎さんは教会のテンプレートを使うだけのスキルを有していないのが今回のコメント依頼の本質です。教会のテンプレートぐらい、ちょっとサンドボックスで練習すれば初めてでも使えるでしょうが、それさえできない人が、膨大な数の教会記事を、ローカルルールも合意も話し合いも無しに書き換えている。私は、この行為だけでも問題ではないかと思います。しかしさらに問題なのがこの記事における編集行為です。冒頭に必要事項を書くとしても、

  • 最善: テンプレートを使用する
  • 次善: テンプレートは使用しないが、必要事項は文章で書く

であり、モンゴルの白い虎さんが教会のテンプレートを使えない事自体は批判しませんが、既にテンプレートを使用した記事にまで「○×教会は、△□県どこぞ市にある何々宗派の教会。」と、記事のバランスも考えずにテンプレートを使用するよりも劣った方法に倣って書き換えてこれで自分の流儀どおりだと満足する行為はやり過ぎであり、批判されてしかるべきでしょう。テンプレートが導入されていない記事にテンプレートを導入するなら感謝もされましょうが (それでもノートに事前に予告し一定期間、待つべきでしょうが) テンプレートが導入済みの記事に、テンプレートが使えない人が、事前説明も同意も無しに記事劣化を招く編集をして、後に理由をノートに書いて戻されるや「テンプレートが何だ!」のような態度で戻してコメント依頼を提出したために、私もこのように問題を指摘したり反論を強いられる状況になっています。--114.181.36.77 2015年4月1日 (水) 00:07 (UTC)

コメント依頼締め切りのお知らせ

4月15日24:00までという提案に対しては異論や対案が出されず、かつ冒頭の変更に関しては同意得られずでしたので、これをもちまして冒頭は「アンネのバラの教会は、世界で唯一のアンネ・フランクを記念する教会でアンネ・フランク資料館を運営する。」に戻させて頂きます。編集は私の方でしておきます。作業は今週末かそれ以降になります。なにかこの件でさらにコメントや提案があればそれまでにお願いします。--114.181.36.77 2015年4月17日 (金) 00:04 (UTC)

導入部修正作業完了と ref に id 導入のお知らせ

コメント依頼が提出されたため、その決着まで記事に手出ししづらくなり、予定していた内容の追記を延期しておりましたが、議論終了に伴い導入部の修正と併せて追記を行いました。また、Sfn の ref は harv ではなく id で指定するように変更したので、読者としては、内容がどの出典に基づいているのかが、著者名と数字で示されていたものが、書名で示されるようになり判りやすくなったと自負しています。反面、書き手としては、出典を読みさらに充実できると考え内容を追記するための難易度が上がりましたが、とはいえソースを見れば判るはずですが、他の大半の記事同様、この記事でも、歴代執筆者で、出典を調べて書く人は居なかったので、これからも出典を調べて書く人が現れる可能性は低いであろうから出典の示し方を変えてもデメリットにはならないと判断しました。ですが念のために献堂が1980年と今から35年前の出来事であるため昔の資料の方が情報があるらしいという事はお伝えしておきます。
やはり、何も出典を調べず、さらにノートも見ずに記事を書き変える人がいましたので、これからもそういう人が現れると見越して記事中にコメント文を幾つか追加しました。 --114.181.36.77 2015年4月20日 (月) 00:14 (UTC)

元の出典の参照方法はハーバード方式と呼ばれるもので、出典テンプレートもそれを前提としています(参考:Wikipedia:出典を明記する/個別参照法Wikipedia:出典テンプレート#短縮脚注参照)。ですので、114.181.36.77さんが考えた独自の参照方法に書き換えるのはおやめください。(ハーバード方式でも著者名と出版年がわからない場合には書籍名で参照することはありますが、今回はそれにあたりません。)
そもそも「読者としては、内容がどの出典に基づいているのかが、著者名と数字で示されていたものが、書名で示されるようになり判りやすくなった」というメリット、「これからも出典を調べて書く人が現れる可能性は低いであろうから」というデメリットにはならないとする前提は、どちらも客観的なデータがないため114.181.36.77さんの憶測にすぎず、既存の参照方法を置き換える根拠になっていません。
出典を執筆者にきちんと示してもらいたいのに、「ソースを見れば判るはず」といって執筆者に負担を強いるのは本末転倒だと思います。--Flasksrw会話) 2015年4月22日 (水) 02:06 (UTC)一部修正--Flasksrw会話2015年4月22日 (水) 09:16 (UTC)


面白い冗談ですね。Wikipedia:利用案内/過去ログ/編集/5#Sfnテンプレートに関する相談でなされた質問に対し、ウィキペディアでも屈指の執筆力で有名な方々から競うように提案された方法のなかで最良と思った出典の示し方を参考にさせてもらったのですが、ご自分が正しいと思うなら、そこの利用案内の場で「独自の参照方法に書き換えるのはおやめください」と提言して意見が通るか試してください。もし、そうすれば赤恥を晒すだけと考え自説が通用するか利用案内で問う事をしないなら、おっしゃる説は間違っていたと認めたものと見なします。
それにしても、私は記事を書こうと思った時間を削って、新規立項がゼロの方に、「あなたはこういう所が間違っていたのですよ」と懇切丁寧に教えて納得させなければいけないのですね。ウィキペディアでは「書き手」は記事を書けない人に果てしなく煩わされるようです。この記事は、さほど分量が長いわけでもないのに、迷惑なだけの人が次々に食いついてきますね。読者に便宜のある出典の示し方をしたらケチをつけられるとは。要するに、{{Cite や {{Sfn には、あなたが理解できていない使いこなし方もあるという事が理解できておらず、あくまで俺様基準で、自分が知らない ref の高度な使い方をする事など認めないぞ、というわけですね。ですが、私は、使い方を知らない人のために、記事で使用する事を制限されなければいけないのでしょうか?
2015年4月10日の絹織智紗さんの編集は、コメント依頼が出され記事をめぐって議論中なのに微修正をしているので、ノートを見ずになされていますね。このように、ノートなど見ないで書き換えるのが普通であれば、それを思いとどまってもらうためには、ソースに書くしか選択肢がありません。文句があれば、「ノートなど見ないで書き換えるのが普通」なウィキペディアの状況を何とかしてくださいな、私に言わずに。

これからも出典を調べて書く人が現れる可能性は低いであろうから」というデメリットにはならないとする前提は、どちらも客観的なデータがない
— User:Flasksrw

今まで私以外に誰も出典をつけた記述をしていないという事実がありますが、とりわけモンゴルの白い虎さんの2015年3月23日 (月) 11:52の編集は衝撃的でしたね。「教団の合唱団」を「聖イエス会の合唱団」と書き換えています。思わず、出典に用いた街レポの MP3 ファイルを聴き直してしまいましたが、やはり「教団の合唱団」と言っていました。「聖イエス会の合唱団」などとは言っていない。どうやったらここまで出典に杜撰になれるのかというよりも、出典に無い虚偽記述をしたのレベルです。今から44年前にイスラエルを訪問した「教団の合唱団」が、「聖イエス会の合唱団」だとどうして判るのか。『アンネ・フランクのバラ』も読み直しましたが、オーディションに通った聖歌隊の選抜メンバーとはあるものの、全員が聖イエス会の人たちとは確認できませんでした。なぜ何一つ調べないで記事を書き換えて、それでよくなると思い込むのか。まして、街レポは出典としてPCさえあれば、クリックするだけで聴ける。それさえしようとしない。それで、記事だけ見て「この教団って聖イエス会の合唱団の事だ。きっとそうだろう。何も調べる必要なんか無い。私はそうだと確信したから正しい。私が書き換えたから、これで記事が良くなった!」のような思考に基づいて書き換えをし、ついでに「よくも自分の導入部分を書き換えたな!」とばかりに冒頭部を自分の書き方に戻してコメント依頼提出ですからねぇ。我慢の限度を超える記事劣化を防ぐため必死で対応する羽目になり疲れました。
ところであなたはこの記事の履歴を追いました? 何か出典を調べましたか? もしどちらも「No」であるなら、なぜわざわざノートで書き手に議論を挑んで来たのですか? ノートは記事を良くするために使うのであって、そうでないなら来られても困ります。あなたは『アンネのバラの教会』の記事を改良できるスキルがあるのか無いのか。古い文献を調査し記事強化に着手してくれるのか、その気は無いのか。

「ソースを見れば判るはず」といって執筆者に負担を強いるのは本末転倒だと思います。
— User:Flasksrw

そう思い込むのは自由ですが、編集をするからにはソースは見てもらわないと困りますし、ノートで Sfn とref についてわざわざ節を設けて説明をして、なお {{Sfn|ref=9784883382644|『アンネ・フランクのバラ』|p=50}} のようなソースを見て、「あ、もし 120p から出典を示したければ、ここの p=50 を p=120 と変えさえすればいいのだな」と理解できず、これを負担だと主張するレベルの利用者ですと、記事をいじくりまわしてもらっても良くなるどころか悪化にしかならないので無理に手出ししなくても良いのではないでしょうか。もちろん他の人が、私が見落としていた本記事の加筆に資する書籍を見つけてくれて記事を書く場合は ref=harv でも、もっと簡単な <ref>『書籍名』著者名等</ref> でも大歓迎いたします。記事に貢献したければ俺様ルールに基づいた議論を仕掛けるのではなく図書館で文献を調査して下さい。私としては、調べる意志・意欲の無い人が記事を書き換える事こそおやめくださいと言いたいです。もっとも、それを防ぐ術は無く認めるしかないのが実情ですが。Flasksrw さんは「記事では出典こそが命」という発想が無いようですので、この記事において「戦力」になるとは思えません。ref=harv と決め打ちするより、ref=id を駆使し id を出典ごとに指定する事で自由度が増し読者に対し判りやすく出典を示すこともできると理解できないとしても、もし「この記事を全部、自分に理解できる ref=harv に書き換えてやる!」みたいな事をなさるのでしたら故意の記事破壊行動と見なし執筆の手を止めて全力で事態収拾に当たらせて頂きますが、Flasksrwさんは、この記事に目を付けるよりも、他の記事ですと出典もちゃんとついていないようなものもたくさんありますから、そちらにて貢献していただく方が向いていると存じます。--114.181.36.77 2015年4月23日 (木) 03:14 (UTC)