チャールズ・ケリー (軍人)

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チャールズ・E・ケリー
Charles E. Kelly
渾名 「コマンドー・ケリー」(Commando Kelly)、「ザ・ワンマンアーミー」(The One Man Army)[1]
生誕 1920年9月23日
US flag 48 stars.svg ペンシルベニア州ピッツバーグ
死没 1985年1月11日(満64歳没)
US flag 48 stars.svg ペンシルベニア州ピッツバーグ
所属組織 US flag 48 stars.svg アメリカ陸軍
軍歴 1942年-1945年
最終階級 三等曹長(technical sergeant)
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チャールズ・E・ケリー(Charles E. Kelly 1920年9月23日 - 1985年1月11日)は、アメリカ軍人第二次世界大戦における名誉勲章受賞者の1人。西部戦線において、下士官としては最初の名誉勲章受賞者であった。名誉勲章の受章理由ともなった激しい戦いぶりから、コマンドー・ケリー(Commando Kelly)の通称で知られる。

経歴[編集]

1942年5月、ケリーは生まれ故郷でもあるペンシルベニア州ピッツバーグアメリカ陸軍に入隊を果たした[2]1943年9月13日、ケリーはイタリア戦線第36歩兵師団英語版第143歩兵連隊L中隊に伍長(Corporal)として配属されていた。この日、期せずしてケリーはアルタヴィッラ近郊でドイツ国防軍の攻撃に晒されていた弾薬集積所の防衛に参加することになる。彼は一晩中倉庫の裏側で戦い続け、その後は倉庫内に立て篭もって抵抗を続けた。撤退命令が下されると、彼は自ら進んで殿軍に志願し、追い詰められながらもドイツ兵の足止めを続けた。全ての兵士が倉庫からの撤退を終了した段階で彼も撤退し、部隊との合流を果たしている。この戦いから5ヵ月後の1944年2月18日、彼は名誉勲章を授与された。

名誉勲章[編集]

ケリーに授与された名誉勲章の勲記には、次のように記されている。

課せられた義務を凌駕する類稀なる武勇と自らの命をも顧みない勇敢に捧ぐ。

1943年9月13日、ケリー伍長は敵機関銃陣地の捜索及び無力化を目的としたパトロールに自発的に参加した。この任務を終えた後、彼はおよそ1マイル先に位置する315高地に駐留するはずの米軍歩兵大隊との連絡を確立する任務に志願した。彼は敵の監視下におかれた道を走破し、狙撃兵、迫撃砲、さらに砲撃に晒されながらも、315高地が組織的な敵に占領されている旨の正確な情報を持ち帰った。その直後にケリー伍長は再びパトロールに志願し、高い技術と勇気が求められる状況下で2つの機関銃陣地破壊に大きく貢献した。この際に彼は持ちうる全ての銃弾を効果的に使い切ったため、弾薬集積所で補給を受ける許可を得た。連隊陣地側面の倉庫に設置された弾薬集積所は、ケリー伍長が到着する頃にはすでにドイツ軍による激しい攻撃に直面していた。弾薬を確保した彼は、倉庫背面の守備を命じられる。彼は一晩中防衛にあたった。翌朝にはドイツ軍の攻撃が再開された。ケリー伍長は倉庫内に移り、開け放たれた窓の前に陣取って応戦した。彼が陣取った付近では、機関銃手が息絶えていたおり、数人の兵士が負傷していた。ケリー伍長は自動小銃の銃身が焼け落ちるまで、敵兵に対して精密かつ効果的な射撃を加えた。さらに別の自動小銃を発見した彼は、再び銃身が焼けるまで敵へ射撃を加えた。敵が倉庫へ殺到し始めると、ケリー伍長は60mm迫撃砲の砲弾を広い、安全ピンを抜いて手榴弾のように投擲し、少なくとも5人の敵兵を殺傷した。倉庫からの退却が不可避な状況になった際、ケリー伍長は上官たる軍曹の制止を振り切り、残りの分遣隊の撤退が完了するまで敵を足止めする殿に志願した。分遣隊の撤退が始まると、彼はあえて敵に身を晒し、ロケットランチャーに砲弾を装填し窓から発射した。彼は部隊の撤退を援護する事に成功し、また原隊への合流にも成功している。ケリー伍長がこの戦いで示した決断力と勇敢は、まさに合衆国軍が誇る最高の伝統を体現している。

受章後、ケリーは凱旋帰国を果たし、故郷ピッツバーグでは盛大なセレモニーが催された。当時のピッツバーグ市長から直々に名誉市民の称号を授与された他、自伝の出版や映画化にまつわる巨額の契約が交わされたり、政界への進出も打診されるなど、ケリーは一躍時の人となった。さらにケリーを含む数名の陸軍歩兵は、戦時国債の購入を促すキャンペーンの一環として「Here's Your Infantry」の宣伝文句を携えてアメリカ全土を巡り、さまざまな戦闘技術の展示を行った。キャンペーン後、ケリーはジョージア州フォート・ベニング英語版にて歩兵学校の教官となった。1945年、三等曹長(technical sergeant)の階級で陸軍を名誉除隊する[3] 。また同年中に最初の妻であるメイとの結婚を果たしている。

戦後[編集]

名誉勲章を受章し第二次世界大戦における「戦争の英雄」となったケリーだが、その後の人生は決して輝かしいものではなかった。

1946年、ピッツバーグ北部でガソリンスタンドを開業したが売り上げは振るわず、1947年には強盗をきっかけに店舗の売却を余儀なくされた。さらに同年、妻メイが子宮ガンと診断される。ケリーは莫大な費用を支払って放射線治療を受けさせたものの、その甲斐もなくメイは1951年に死去した。さらにメイの治療費を都合するべく借金を重ねていたケリーは強制執行により家を差し押さえられてしまった[4]

1952年ドワイト・D・アイゼンハワーの全国選挙活動が始まる頃、ケリーはフォート・ノックス勤務時に知り合ったベティ・ガスキンという女性と交際することになる。彼らはケンタッキー州ルイビルに引越し、6週間後に挙式した[4]

しかし、その後もケリーは日雇いや短期の仕事にしか就くことができなかった。この生活はケリーに健康面および経済面の問題を引き起こしたばかりでなく、彼がアルコールに溺れるきっかけとなった。1961年にはベティとの間に子供が出来たが、1962年には離婚した。1984年末、ケリーは腎臓及び肝臓に障害を患い、ピッツバーグの退役軍人病院に入院した。1985年1月11日、2人の兄弟と医師らに見守られつつ、彼は64歳で死去した。この死は彼自身が治療用チューブを引き抜いたことによる自殺とも言われている。故郷ピッツバーグのハイウッド墓地に埋葬された。

その他の栄誉[編集]

1987年ペンシルベニア州オークデールのオークデール陸軍支援班(Oakdale Army Support Element)は、チャールズ・E・ケリー支援施設(Charles E. Kelly Support Facility)に改名された[5]

脚注[編集]

参考文献[編集]