タンパベイ・ライトニング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
タンパベイ・ライトニング
Tampa Bay Lightning

フロリダ州タンパ
創設1992年
所属カンファレンス
所属ディビジョン
  • アトランティック
歴代チーム名
  • タンパベイ・ライトニング(1992 - )
本拠地
収容人員: 19,204人
チームカラー
  • 黒、白、青
獲得タイトル(獲得年)
スタンレーカップ優勝 (1回) 2004
アブコワールド なし
カンファレンス優勝 (1回) 2004
ディビジョン優勝 (2回) 2003・2004
プレジデンツトロフィー なし
組織
オーナー: タンバベイ・スポーツ・アンド・エンタテイメント
GM: スティーブ・アイザーマン
HC: ジョン・クーパー
主将: --

タンパベイ・ライトニング (The Tampa Bay Lightning) はアメリカ合衆国フロリダ州タンパを本拠としている北米プロアイスホッケーリーグ (National Hockey League 略 NHL)チームである。日本企業がオーナーだったときもある。

歴史[編集]

1991年にタンパがフランチャイズ権を獲得したとき、チーム管理の専門家がいなかったため、手始めにフロントに往年のスター選手を並べた。GM には1970年代ボストン・ブルーインズの名選手フィル・エスポジト(Phil Esposito) を起用し、兄弟のトニー・エスポジト (Tony Esposito) と1970年代中場でフィラデルフィア・フライヤーズの選手としてスタンレー・カップの優勝2度またコーチとしては1989年カルガリー・フレームスをカップ優勝に導いた経験を持つテリー・クリスプ (Terry Crisp) が主任スカウトに就任した。

1992年10月7日にライトニングの初試合が行われ、ビジターのシカゴ・ブラックホークスに7対3で勝利を収める。この試合では当時無名の Chris Kontos が4ゴールを上げる(1試合4ゴールはチーム新記録)。この期ライトニングは1月ほどノリス地区の首位を争うが、結局最下位に沈む。しかしながら、1992年のチームポイント53は、NHL史上エクスパンションチームの初年度成績としては優秀な部類に入る。また、ブライアン・ブラッドリー (Brian Bradley) は42ゴールをあげている。

1993年はチーム力強化の一環として、ゴーリーにダレン・プッパ (Darren Puppa) 、左ウイングに得点力のあるペトル・クリーマ (Petr Klima) そしてベテランのデニ・サヴァール (Denis Savard) を補強。プッパの加入により失点こそ劇的に減少したものの、サヴァールは選手としての盛りを過ぎ、またクリーマの得点力は彼のディフェンスの弱点と相殺されて、ライトニングは結局この年も最下位に終わる。

設立4期目の1996年は、チーム得点王のブラッドリー、加入2年目のアレクサンダー・セリヴァノフ (Alexander Selivanov) の31ゴール、ディフェンスで年度のオールスターに選抜されたロマン・ハムリク (Roman Hamrlik) (1992年ドラフト1位指名)らの活躍により、チームは初のプレイオフに進出。この試合でチームはフライヤーズに第1ラウンドで敗退した。(4月23日に行われた試合の観客動員数28,183人は、2003年に野外試合が行われるまでNHL史上最多であった。)

ライトニングはそのオフに、デトロイト・レッドウイングスから点取り屋のディーノ・シサレッリ (Dino Ciccarelli) を獲得、期待に違わず35ゴールを上げる。こうしてライトニングはプレーオフ再出場に向かって発進するが、プッパとブラッドリーを相次いで怪我で欠き、またセンターのジョン・カレン (John Cullen) に癌が発見される。カレンは助かったものの、1997年チームはプレーオフ進出を果せなかった。

1998年には前述のライトニングの有力選手達は、フリーエージェント権行使やトレードによりチームを去り、残された若手達が使い物になるには時を要した。こうして数年間は低迷が続いた。スカウトのクリスプは1997-1998 シーズン11試合目に解雇され代わってジャック・デメール (Jacques Demers) が就任した。また、プッパは背中を痛めており出場機会がほとんどなかった。このシーズンは82試合で55敗を喫し、さらに翌期、翌々期ともに57敗と振るわなかった(3期連続50敗以上はNHLのワースト記録)。この不振の主因はオーナーシップにあった。もともとのオーナーは日本企業の共同企業体にあった。チームが expansion 料金の債務不履行を起こしたとき、共同事業体のメンバー Kokusai Green がチームの支配権を握った。チームの設立2期目くらいからライトニングの財政難や、日本の暴力団の資金洗浄に使用されているとの噂が取り沙汰された。

初のプレーオフ進出後も、チームは慢性赤字に悩み、オーナーはチーム売却を望んだ。しかしながらクリスプらフランチャイズの内部関係者ですらオーナーが誰であるかも知らず、またある有力共同経営者は存在すらしないとも伝えられた。そして、チームは6年間で1億ドル以上の損失を計上したのち、結局1998年に保険業を営むアート・ウイリアムズ (Art Williams) に売却された。(ウイリアムズは強い南部訛りを持ち、また fundamentalist Christian として知られた。)

1999年の春ウイリアムズはチームを見限り、デトロイト・ピストンズ (NBA) のオーナー、ビル・デビッドソン (Bill Davidson) に売却する。

2003年に、ライトニングはゴーリーのニコライ・ハビブリン (Nikolai Khabibulin) やマルタン・サンルイ (Martin St. Louis)、ヴァンサン・ルキャヴァリエ (Vincent Lecavalier)、ヴァーツラフ・プロシュパル (Vaclav Prospal) らの活躍により、南東地区首位に躍り出て7年ぶりにプレーオフに進出する。2連敗から盛り返して、ワシントン・キャピタルズを第6試合で撃破した。この試合でマルタン・サンルイは勝利を決定付ける3度の延長戦得点を達成する。第2ラウンドは、対戦相手のニュージャージー・デビルスの前にチームは持ち味を発揮することができず、第5試合で敗退する。このシリーズで、ニコライ・ハビブリンは GAA 3.0 の記録を残す。

2004年度は東カンファレンスをトップの成績で通過するとともに、チーム記録のシーズン106ポイントを樹立。第1シードで臨んだプレーオフ第1ラウンドでは、東カンファレンスの大物食いで知られ、チームも過去に何度か痛い目にあったニューヨーク・アイランダーズを破った。このラウンドではゴーリーのニコライ・ハビブリンの堅実なプレーもあって4勝1敗と危なげなかった。続く第2ラウンドはNHL史上最も華々しい歴史を有するモントリオール・カナディアンズとの対戦。しかし、ルキャヴァリエ、ハビブリン両選手の活躍により、カナディアンズに4連勝する。

東カンファレンス決勝ではフィラデルフィア・フライヤーズとの対戦。両者一進一退の攻防を制し、ライトニングは初のスタンレー・カップ決勝進出を果した。

そして、2004年6月7日ライトニングはカルガリー・フレームスを4試合で破り、創立以来初のスタンレー・カップ優勝を果した。このシリーズで26ポイントを獲得したブラッド・リチャーズ (Brad Richards) は、プレイオフMVPであるコーン・スマイス賞を受賞している。

しかし、2005年にKhabibulinが抜けると、控えだったジョン・グラアム(John Grahame)と、新加入のショーン・バーク(Sean Burke)がゴールを守るようになる。しかし、彼らはKhabibulinほどの活躍はできず、チームはかろうじてプレーオフに進出した程度の結果しか残せなかった。 ちなみに、Khabibulinは移籍先のシカゴ・ブラックホークスでは不振だったので、翌シーズンに背番号を変えている。 これに追い討ちをかけたのが、BurkeとGrahameの移籍で、2006-2007シーズンは、オフにコロンバス・ブルージャケッツから獲得したMarc Denis(マーク・デニー)と、Johan Holmqvist(ヨハン・ホルムクウィスト)でしのいだ。 結局2004年から2005年のNHLロックアウトの後はカンファレンス8位、7位と低迷。プレーオフではいずれも1回戦で負けている。

2007-08年は大不振に終わり、トレード・デッドライン間際に功労者・リチャーズを放出した。このオフのドラフトでは、全体1位指名でスティーブン・ステムコス (Steven Stamkos) を獲得。彼を中心としたチーム作りへとシフトしていく。

2008-09年こそステムコスは23ゴールに終わった (主に、前半戦はヘッドコーチとの確執があった) が、翌2009-10年には50ゴールをあげ早くもブレイク。

GMがスティーブ・アイザーマンに変わった2010-11年には、的を射た補強で4年ぶりのプレーオフ進出。シドニー・クロスビーエブゲニ・マルキンを欠くピッツバーグ・ペンギンスを4勝3敗で破った。これらの結果を残したアイザーマンは「最優秀GM賞」のファイナリストとなった。

スタンレーカップ戦績[編集]

優勝[編集]

2003-2004

準優勝[編集]

外部リンク[編集]