オットー・フィンシュ

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オットー・フィンシュ
Friedrich Hermann Otto Finsch

フリードリッヒ・ヘルマン・オットー・フィンシュ (Friedrich Hermann Otto Finsch, 1839年8月8日 - 1917年1月31日)は、ドイツ人民俗学者博物学者探検家である。

来歴[編集]

オットー・フィンシュはシレジアのヴァルムブルンに生まれた。19歳のとき家庭教師としてブルガリアへ移り住み、暇な時間には博物学を学び、初の論文を "Journal fur Ornithologie" 誌上に発表した。(内容は、ブルガリアの鳥類についてのものであった) その後オランダ・ライデンの国立博物館の副管理者となり、1864年にはブレーメンの博物館の管理者に就任した。1876年、彼は動物学者のアルフレート・ブレームトルキスタン中国北西部の探検に同行した。

彼は再び探検旅行に出るため1878年に博物館の管理者を辞任し、妻のジョセフィーンとともにポリネシアニュージーランドオーストラリアニューギニア島などを旅している。1882年にはドイツに帰国したが、1884年にはドイツ帝国のコミッショナーとしてニューギニアに戻り、その北東部およびニューブリテン島ニューアイルランド島をドイツの保護領とするよう協定した。ニューギニア北東部は「カイザーウィルヘルムランド」と、ニューブリテン島などの島々はビスマルク諸島と後に改名され、植民地の首都はフィンシュの栄誉を称えてフィンシュハーフェン(「フィンシュの港」の意)と名づけられた。1885年にはヨーロッパ人としてセピク川を発見し、ドイツのアウグスタ皇后の名から後にそれを "Kaiserin Augusta" と命名している。

ベルリンに戻った後は、ニューギニア会社のアドバイザーとして2年間を過ごした。1898年にライデンの国立博物館の鳥類コレクションの管理者に就任、1904年ブラウンシュヴァイク市立博物館の民俗学部門の長官となり、その地で没した。

フジイロボウシインコ(学名:Amazona finschi)やハイガシラホンセイインコ(学名:Psittacula finschii)など、いくつかのオウムには彼の名に因んだ学名が付けられている。また、クレーターにもフィンシュ・クレーターという彼の栄誉を称えて命名されたものがある。(水色のリンクはいずれも英語版の記事)

著書[編集]

彼の著書には、グスタフ・ハートローブ (1814-1900) との共著である Die Vogel Ost Afrika のほか、以下のようなものがある。

  • Neu-Guinea und seine Bewohner, etc. (Bremen, 1865).
  • Die Papageien, monographisch bearbeitet (全2巻、Leiden, 1867-1868).
  • Avec G. Hartlaub, Beitrag zur Fauna Centralpolynesiens. Ornithologie der Viti-, Samoa- und Tonga-Inseln (Halle, 1867).
  • Reise nach West-Sibirien im Jahre 1876 (Berlin, 1879).
  • Samoafahrten. Reisen in Kaiser Wilhelms-Land und Englisch-Neu-Guinea in den Jahren 1884 u. 1885, etc. (Leipzig, 1888).
  • Ethnologische Erfahrungen und Belegstücke aus der Südsee (Wien, 1893).

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