エーリヒ・ヘプナー

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右がヘプナー上級大将、左はヴァルター・クリューガーSS少将(1941年10月、東部戦線)

エーリヒ・ヘプナーErich Hoepner, 1886年10月14日1944年8月8日)は、ドイツ軍人第二次世界大戦では戦車(装甲)部隊司令官として活躍。最終階級は上級大将ヒトラー暗殺計画に加わり処刑された。


経歴[編集]

初期の軍歴[編集]

フランクフルト・アン・デア・オーダーに医師の息子として生まれる。1890年に家族とともにベルリン・シャルロッテンブルク区に転居。1895年にギムナジウムを卒業し、1909年に士官候補生としてメスに駐屯するシュレースヴィヒ・ホルシュタイン第13竜騎兵連隊に配属される。1910年に結婚し二児をもうける。1913年10月、ベルリンの軍事大学に入学。翌年始まった第一次世界大戦では第16軍団副官となり、1916年からは前線で従軍。大戦中に騎兵大尉に昇進。

終戦後の1920年、アレンシュタインの第2騎兵連隊で中隊長。翌年騎兵総監参謀部大尉としてベルリンに転属。1923年、故郷フランクフルト/オーダーの第1騎兵師団参謀。1927年、少佐に昇進しケーニヒスベルク軍管区主任参謀。1930年、ブラウンシュヴァイクの第17歩兵連隊で大隊長。1932年、中佐に昇進しポツダムの第4騎兵連隊長。1933年、ベルリン軍管区参謀長。1935年大佐に昇進。1937年、少将に昇進しヴッパータールの第1軽快師団長。1938年、中将に昇進。1939年の第二次世界大戦勃発直前には騎兵大将としてベルリンの第16軍団長を務めていた。

電撃戦と抵抗運動[編集]

ポーランド侵攻では第10軍に属し、二個装甲師団と二個装甲擲弾兵師団からなる第16自動車化軍団を指揮。この戦功により1939年10月、騎士鉄十字章を受章。同部隊を率いて翌年の西方電撃戦に従軍、その戦功により上級大将に昇進。同軍団は1941年に第4装甲集団と改称された。第41軍団と第56自動車化軍団からなる同部隊(計7個師団)を率いてバルバロッサ作戦に参加。モスクワの戦いの前哨戦となるビャスマ・ブリャンスクの戦いでソ連軍を包囲撃滅した。第4装甲集団は同年12月に第4装甲軍と改称され、5個軍団・12個師団からなる大部隊となった。この当時ヘプナーはグデーリアンホトフォン・クライストロンメルと並ぶ優れた装甲部隊指揮官として知られていた。

人民法廷でのヘプナー(1944年8月)
抵抗運動参加者のヘプナーヘニング・フォン・トレスコウを記念する案内板(ベルリン)

しかし1942年1月、ソ連軍の冬季反攻に際してヒトラーの死守命令を無視して戦術的後退をしたために更迭され、ドイツ国防軍を不名誉除隊となった。上級大将としての給与や年金の支給も停止されたという。彼はこれを不服としてライプツィヒの地方裁判所へ提訴して勝訴。年金だけは支給される事になったという。以後ヘプナーはヒトラーに対する抵抗運動に身を投じる事になる。

1944年7月20日午後12時42分、ヒトラー暗殺計画クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐らによって決行された。その頃ヘプナーはベルリンベンドラー街(現在はシュタウフェンベルク街に改称)の国内予備軍司令部を訪れ、副司令官のフリードリヒ・オルブリヒト大将のもとで待機していた。ヒトラーは軽症を負ったのみだったが、それを確認できないまま午後3時すぎ、「ヴァルキューレ(反ヒトラー陰謀の作戦名)」が発令されてクーデターが開始された。国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将はクーデターに反対したため監禁された。 午後5時頃、ヘプナーはクーデター派から同軍司令官に任命された。彼はヒトラーから軍服の着用を禁じられていたが、トランクに軍服を隠し持ってきてそれに着替えた。各地の軍部隊に伝達された命令書には、国内予備軍司令官としてのヘプナーの名が使用される事になったが、しかし軍部隊を目的通りに指揮できなかった。さらにヒトラーは鎮圧のためにハインリッヒ・ヒムラー親衛隊長官を新たに国内予備軍司令官に任命。「ヘプナーの出した命令に従ってはならない」という命令を出すなどして対抗し、結局クーデターは失敗する。 午後10時半過ぎ、ヒトラー支持の将校たちと銃撃戦になり、ヘプナーの居る司令官執務室にヒトラー派が突入して来てクーデター派は逮捕された。午後11時頃、フロム大将は即決の軍法会議を開き、クーデター派のオルブリヒトやシュタウフェンベルクら4人を銃殺させた。ヘプナーは軍法会議で弁明することを希望して、その場での処刑も自決も拒否し、逮捕された。だが恐らく、彼は後にその決定を一度は後悔したと思われる。

1944年8月7日、エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン元帥ら計8人と共に、国家および民族に対する反逆罪でローラント・フライスラー裁判長によるベルリンの人民法廷の見せしめ裁判にかけられ、フライスラーから罵倒された。その裁判の模様の映像が残っている。翌8月8日死刑判決を受け、その数時間後の同日夕方、プレッツェンゼー刑務所の処刑場で、ピアノ線による残忍な方法の絞首刑が執行された。その模様は後にヒトラーに見せるため映像で撮影された。

ヒトラーに抵抗した軍人として、戦後のドイツでは顕彰の対象となり、兵舎や学校、通りなどに彼の名が冠されている。

外部リンク[編集]