エル・プエルト・デ・サンタ・マリア

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'El Puerto de Santa María'

Bandera psm.jpg   Escudo de El Puerto de Santa María.svg

Resbaladero.jpg
アンダルシア州
カディス県
面積 159.34km²
標高 6m
人口 86,288人(2008年)
人口密度 541.53人/km²
Map of El Puerto de Santa María (Cádiz).png

北緯36度36分00秒 西経6度13分00秒 / 北緯36.6度 西経6.216667度 / 36.6; -6.216667

エル・プエルト・デ・サンタ・マリーアEl Puerto de Santa María, 聖母マリアの港という意味)は、スペインアンダルシア州カディス県の都市。

目次

[編集] 地理

マヨール・プリオル教会

エル・プエルト・デ・サンタ・マリーアは、大西洋に面したカディス湾沿岸に位置する。近郊の自治体は、ヘレス・デ・ラ・フロンテーラロタプエルト・レアルカディスである。海水浴で人気を集める観光都市でもある。シェリー港として知られる主要港を持つ。市の多くの土地が、カディス湾自然保護区となっている。

[編集] 歴史

ホメロスの『オデュッセイア』によれば、トロヤ戦争の後にギリシャ側についていたアテネ王メネステウスが自軍を率いてジブラルタル海峡を通って逃亡し、グアダレーテ川にたどりついたという。彼らはこの地に定住し、メネステウス港という港を築いた。

711年、北アフリカからやってきたムーア人がスペイン南部へ侵攻した。フェニキア人と古代ローマ人の製塩工場があったため、彼らは地名を『塩の港』を意味するアルカンテ(Alcante)またはアルカナティフ(Alcanatif)と名付けた。

1260年、カスティーリャアルフォンソ10世がムーア人から都市を奪い、サンタ・マリーア・デル・プエルト(Santa María del Puerto、港の聖母マリア)と改名した。彼は土地配分を指揮し、カスティーリャ王国のもとでの憲章を認めた。彼がガリシア=ポルトガル語で編纂したとされる写本聖母マリアのカンティガes:Cantigas de Santa MariaCSM 367では、アルフォンソ10世は『サンタ・マリーア・デル・プエルトの教会を訪問後、傷めていた脚が奇跡的に癒された』と歌っている。

コサのマッパ・ムンディ

クリストバル・コロンは、新大陸への第二次航海の際、エル・プエルト・デ・サンタ・マリーアから出発した。彼の水先案内人、フアン・デ・ラ・コサは1500年にこの町でマッパ・ムンディを製作した

1480年、コロンはエル・プエルト・デ・サンタ・マリーアを訪れ、遠征計画の奨励を受けた。彼も1500年にマッパ・ムンディを発行したフアン・デ・ラ・コサに会った。

エル・プエルト・デ・サンタ・マリーアには、スペインにおける新世界貿易を司る、裕福なカルガドレス商人数名が住んでいた。

16世紀から17世紀、スペイン海軍ガレー船の冬期港とされていた。

19世紀のスペイン独立戦争の間、エル・プエルト・デ・サンタ・マリーアにはジョセフ・ボナパルトが指揮するフランス軍本部が置かれていた。

[編集] 統計

エル・プエルト・デ・サンタ・マリアの人口の推移
1999年 2000年 2001年 2002年 2003年 2004年 2005年
75,097 75,478 76,538 77,747 79,889 80,658 82,306

[編集] 経済

市役所

夏期にアリーナで開かれる闘牛同様、観光が最重要の経済活動である。へレス・モトGPの会期中、エル・プエルトは多くのモーター・サイクリスト集団を受け入れている。中心部とその周辺では商業が盛んで、ワイン産業も非常によく発達している。

[編集] 出身の著名人

[編集] 姉妹都市

[編集] 外部リンク

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