エムレ・アシュク

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エムレ・アシュク
名前
ラテン文字 Emre Aşık
基本情報
国籍 トルコの旗 トルコ
生年月日 (1973-12-13) 1973年12月13日(50歳)
出身地 ブルサ
身長 183cm
選手情報
ポジション DF(CB)
ユース
1983-1990 トルコの旗 ションメズ・フィラメントスポル
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1990-1992 トルコの旗 ションメズ・フィラメントスポル 28 (0)
1992-1993 トルコの旗 バルケスィルスポル 27 (7)
1993-1996 トルコの旗 フェネルバフチェ 42 (1)
1996-2000 トルコの旗 イスタンブールスポル 86 (6)
2000-2003 トルコの旗 ガラタサライ 63 (1)
2003-2006 トルコの旗 ベシクタシュ 32 (2)
2006-2010 トルコの旗 ガラタサライ 39 (1)
2007-2008 トルコの旗 アンカラスポル(loan) 26 (1)
代表歴
1992-1993  トルコ U-18 17 (1)
1993  トルコ U-20 3 (0)
1993-2010  トルコ 36 (2)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

エムレ・アシュクトルコ語: Emre Aşık1973年12月13日 - )は、トルコの元サッカー選手。元トルコ代表。ポジションはDF

クラブ歴[編集]

ションメズ・フィラメントスポルの下部組織出身で、1990年5月27日の試合で途中出場し3部所属のトップチームにデビュー[1]。このシーズンは他に出場が無かったが、翌シーズンに主力として出場を重ねた。

1992年夏にバルケスィルスポルに完全移籍。同年8月30日に移籍後初出場、その十日後にプロ初得点を記録した[2]

1993年夏にフェネルバフチェSKに完全移籍。8月11日のバシュバカニルク・クパスの109分に決勝点を叩きこんだため、加入直後から印象強い選手となった[3]。しかしシーズンを経るごとに出場機会は減っていった。

1996年夏にイスタンブールスポルに完全移籍した。

2000年夏にガラタサライSKに3年契約で完全移籍。暫く遠ざかっていた代表から再び招集されるパフォーマンスを見せた。

2003年夏にライバルのベシクタシュJKに3年契約で完全移籍[2]。10月1日のチェルシーFC戦でチームを勝利に導く大活躍を見せたため、「スタンフォード・ブリッジの英雄」と呼ばれた[4][5]。ただ、翌シーズンには出番が減少した。

2006年2月に単年契約でガラタサライに帰還した[2]。翌シーズンにアンカラスポルに期限付き移籍、セルヴェト・チェティンギョクハン・ザンがレギュラーで彼はその控えであったが、ザンが負傷して以降は主力として活躍した。その後ガラタサライに戻ったが、怪我に泣かされ2010年に引退した。

代表歴[編集]

年代別代表としてはU-18代表、U-20代表としての出場歴がある。後者では1993 FIFAワールドユース選手権に出場した[2]

2002 FIFAワールドカップではブラジル代表戦では出場機会が無かったものの[6]コスタリカ代表戦、中国代表戦でスターティングメンバーとして出場した[7]。しかし日本代表戦は警告累積で出場停止であった[8]

UEFA EURO 2008では、クラブではザンが負傷したためにレギュラーとなっていた彼であるが、スイス代表戦にスターティングメンバーとして出場[9]。その後エムレ・ギュンギョルが台頭したが、ギュンギョルが負傷したため再びレギュラーを務めた[10]。トルコが敗れた準決勝のドイツ代表戦は累積で出場停止であった[11]

ガラタサライ時代のチームメイトのオカン・ブルクとともに2010年5月22日のチェコ代表との親善試合で引退した[12][13]

プレースタイル[編集]

非常に激しく当たりに行くディフェンダーとして有名で[14][15]、リーグ戦のみでキャリア通算のイエローカードは108枚、レッドカードは13枚もらっている[2]。そのプレースタイルから物議を呼ぶ事も多かった。

人物[編集]

ガラタサライとベシクタシュの両方でプレーした数少ない選手の一人である[16]

2020年には妻が彼を殺すために100万ポンドをかけて暗殺者を雇うという事件が起こったが、この計画は暗殺者からのリークで未然に発覚した[17]。妻の愛人もこの話を持ちかけられたものの拒否、離婚のついでに彼を殺害し保証金を得るのだけが狙いであったようだと述べている。なおこの妻との間には3人の子がいる。

参考文献[編集]

  1. ^ EDREMİT BELEDİYESPOR 3–1 SÖNMEZ FİLAMENTSPOR” (トルコ語). tff.org. 2010年10月5日閲覧。
  2. ^ a b c d e EMRE AŞIK” (トルコ語). tff.org. 2010年10月5日閲覧。
  3. ^ FENERBAHÇE 1–0 TRABZONSPOR A.Ş.” (トルコ語). tff.org. 2010年10月5日閲覧。
  4. ^ Wallace, Sam (2003年10月8日). “Turkey delight at bulletins from England”. London: telegraph.co.uk. https://www.telegraph.co.uk/sport/football/teams/england/2422851/Turkey-delight-at-bulletins-from-England.html 2010年10月5日閲覧。 
  5. ^ Glendenning, Barry (2003年10月1日). “Chelsea 0 – 2 Besiktas”. London: guardian.co.uk. https://www.theguardian.com/football/2003/oct/01/newsstory.sport16 2010年10月5日閲覧。 
  6. ^ Brazil – Turkey”. fifa.com. 2010年6月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年10月5日閲覧。
  7. ^ Costa Rica – Turkey”. fifa.com. 2009年2月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年10月5日閲覧。
  8. ^ Turkey – China PR”. fifa.com. 2012年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年10月5日閲覧。
  9. ^ Saffer, Paul (2008年6月11日). “Last-gasp Arda shatters Swiss dreams”. uefa.com. 2012年7月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年10月5日閲覧。
  10. ^ “Euro 2008: Turkey face injury crisis ahead of quarter-final clash with Croatia”. London: telegraph.co.uk. (2008年6月15日). https://www.telegraph.co.uk/sport/football/international/2303401/Euro-2008-Turkey-face-injury-crisis-ahead-of-quarter-final-clash-with-Croatia.html 2010年10月5日閲覧。 
  11. ^ Harrold, Michael (2008年6月20日). “Turkey triumph in Vienna shoot-out”. uefa.com. 2010年10月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年10月5日閲覧。
  12. ^ Emre Aşık ve Okan Buruk'a milli jest” (トルコ語). radikal.com.tr (2010年5月15日). 2010年10月5日閲覧。
  13. ^ TÜRKİYE 2–1 ÇEK CUMHURİYETİ” (トルコ語). tff.org. 2010年10月5日閲覧。
  14. ^ “Time for change at Galatasaray”. bbc.co.uk. (2000年8月24日). http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/europe/891283.stm 2010年10月5日閲覧。 
  15. ^ “Team Pages: Turkey: Squad”. bbc.co.uk. (2002年5月29日). http://news.bbc.co.uk/sport3/worldcup2002/hi/team_pages/turkey/squad/newsid_1975000/1975043.stm 2010年10月5日閲覧。 
  16. ^ İŞTE GALATASARAY ve BEŞİKTAŞ'DA FORMA GİYEN FUTBOLCULAR..” (トルコ語). turkspor.net. 2011年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年10月5日閲覧。
  17. ^ Emre Asik's Wife Yagmur Asik Reportedly Paid £1m To Get Ex-Turkey International Killed”. republic world (2020年9月26日). 2022年5月23日閲覧。

外部リンク[編集]