インディギルカ号

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
猿払村にある遭難者慰霊碑

インディギルカ号ロシア語:Индигиркаインヂギールカ)は、旧ソビエト連邦貨客船1939年12月12日の未明、北海道猿払村浜鬼志別沖合で座礁沈没。全長80m内外。船名は、シベリア地方のインディギルカ川に由来。

概要[編集]

遭難[編集]

シベリアのマガダンからウラジオストクを目指している途中に暴風雨に巻き込まれ、宗谷岬の位置を見誤ったことから漂流。猿払村の浅瀬に座礁した。猿払村の住民が総出で救出活動にあたり、子供も含め429名の生存者を救出するものの700名以上が死亡したと思われる。なぜか正確な乗客数を把握している乗組員は存在しなかった。また、先に救助された船長が「船内にもう残る乗員はいない」と述べたため、船内に取り残された乗客が多数犠牲になったという証言もある。

救出後[編集]

当時、船長や乗客の説明では、乗客は漁期を終えた漁業者であり、カムチャツカ半島から引き上げてくる途中に遭難したというものであった。しかし個々の乗客の素性や目的等、その詳細については明らかにされなかった。前述の船長による乗客の扱いも不審な部分であり、一方、事件を知ったソ連政府は日本政府に対して、船体の所有権を放棄したばかりか遺体の収容は不要、遺品の返還も無用、という異例の連絡を行っている。救助された乗組員らは、当月中に小樽港から離日、ウラジオストクへ向け帰国していった。

猿払村は、1971年オホーツク海に面した場所に慰霊碑を建立するなど、事故後も手厚く遭難者の慰霊を行ってきた。ソ連当局は、慰霊碑の建立には協力したものの、冷戦時代に付きものであった派手なプロパガンダはなく、事故に対して比較的冷淡な姿勢を示したことは、長らく事故の詳細と共に謎とされてきた。

謎の解明[編集]

ソ連崩壊後の1991年歴史学者原暉之は旧ソ連の公文書をひもとき、乗員の多くがコルィマ鉱山などのシベリア地方に点在していた強制収容所グラグ)からの送還者であり、船自体が政治犯および家族の護送船であったとの説を発表している。

関連項目[編集]

参考文献[編集]