「アフガニスタン・イスラム首長国」の版間の差分
Rocketaccelerator (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
en:Islamic Emirate of Afghanistan(04:29, 22 August 2021)を翻訳 タグ: サイズの大幅な増減 モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集 |
||
12行目: | 12行目: | ||
|次代1 = アフガニスタン・イスラム国 |
|次代1 = アフガニスタン・イスラム国 |
||
|次旗1 = Flag of Afghanistan (1992–2001).svg |
|次旗1 = Flag of Afghanistan (1992–2001).svg |
||
|国旗画像 = Flag of |
|国旗画像 = Flag of Taliban.svg |
||
|国旗リンク = |
|国旗リンク = |
||
|国旗幅 = <!-- 初期値125px --> |
|国旗幅 = <!-- 初期値125px --> |
||
65行目: | 65行目: | ||
== 概要 == |
== 概要 == |
||
=== タリバン政権の樹立と統治 === |
|||
タリバンは最盛期にアフガニスタンの約90%を支配したが、残った北東部は旧政権の[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]に支配されており、アフガニスタン政府としての[[国際連合]]の代表権を引き続き保持していた。タリバンは[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]と[[アルカーイダ]]関係者に安全な避難場所を提供し、[[アメリカ同時多発テロ事件]]などの主要な[[テロリズム|テロ]]攻撃の計画を可能にした。アメリカ同時多発テロ事件以降、タリバン政権に対する国際的な非難が高まり、[[アラブ首長国連邦]]、[[サウジアラビア]]、[[パキスタン]]から相次いで外交的承認を取り消された。アフガニスタン・イスラム首長国は、米国主導の[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|対テロ戦争]]により、増強された北部同盟によって打ち倒された後、[[2001年]][[12月17日]]に消滅した。 |
|||
1996年から2001年の旧ターリバーン政権は、部分的に承認された国家として存在し、[[パキスタン]]、[[トルクメニスタン]]<ref>{{cite web|title=Turkmenistan-Foreign Relations|url=https://www.globalsecurity.org/military/world/centralasia/turkmen-forrel.htm|archive-url=https://web.archive.org/web/20170901151233/https://www.globalsecurity.org/military/world/centralasia/turkmen-forrel.htm|archive-date=1 September 2017|website=Globalsecurity}}</ref><ref name="Stratfor2">{{cite web|title=Turkmenistan Takes a Chance on the Taliban|url=https://worldview.stratfor.com/article/turkmenistan-takes-chance-taliban|archive-url=https://web.archive.org/web/20191208215217/https://worldview.stratfor.com/article/turkmenistan-takes-chance-taliban|archive-date=8 December 2019|website=Stratfor}}</ref> 、[[サウジアラビア]]、[[アラブ首長国連邦]]によってのみ承認された<ref>{{cite book|last1=Guelke|first1=Adrian|url=https://books.google.com/books?id=diJSFBiOMjUC&pg=PA55|title=Terrorism and Global Disorder – Adrian Guelke – Google Libros|date=25 August 2006|isbn=9781850438038|access-date=15 August 2012}}</ref> 。それは、[[イスラム法学]]派のハナフィー学派とグループの創設者であるモハメッド・オマールの宗教的命令に従って、イスラム宗教法(シャリーア)のデオバンド派の解釈によって支配された神学として運営されていました。 自由民主主義、世俗主義、そして[[西側諸国]]、特に米国とイスラエルへの反対が強く促進された<ref>{{Cite book|last=Nagamine|first=Yoshinobu|title=The Legitimization Strategy of the Taliban's Code of Conduct: Through the One-Way Mirror|publisher=[[Palgrave Macmillan]]|year=2016|isbn=9781137530882|pages=19}}</ref><ref>{{Cite book|last1=Jeffrey|first1=Craig|title=Keywords for Modern India|last2=Harriss|first2=John|publisher=[[Oxford University Press]]|year=2014|isbn=9780191643927|pages=77}}</ref>。この時期、[[キリスト教]]徒、シーア派[[イスラム教]]徒、[[仏教]]徒、シーク教徒、[[ヒンドゥー]]教徒などの非[[スンニ派]]イスラム教徒の少数派は、広範な宗教的差別や文化的虐殺、その他の形態の迫害に直面した。 タリバーンはまた、1500年前のバーミヤンの仏像など、数多くの記念碑や歴史的遺物を破壊した<ref>{{Cite news|date=2015-03-12|title=The man who helped blow up the Bamiyan Buddhas|language=en-GB|work=BBC News|url=https://www.bbc.com/news/world-asia-31813681|access-date=2021-08-17}}</ref>。 |
|||
=== |
=== 政権の崩壊 === |
||
2001年のアルカイダによる[[アメリカ同時多発テロ事件]](9.11)後の米国による「[[対テロ戦争]]」の宣言に続いて、イスラム首長国を運営するタリバーン政権に対する国際的な批判が劇的に増加した。 |
|||
2001年の米国主導の[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガニスタン侵攻]]は、タリバーンが[[アルカイダ]]の指導者及び9.11の首謀者[[オサマ・ビンラディン]]を引き渡すことを要求したブッシュ政権の最後通告に従うことを拒否した後に起こった。2001年12月17日のトラボラ戦の終結は、[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]によるイスラム首長国の効果的な転覆を示した。北部同盟は、2か月前のアメリカの侵攻後に設立された国際治安支援部隊(ISAF)によって大いに強化されました。これにより、タリバンは国の大部分を喪失し、最終的には[[アフガニスタン・イスラム共和国]]が形成された。ターリバーンは反乱軍として活動しているにもかかわらず、2001年12月の転覆から、2021年8月の政権復帰までのすべての公式通信において、一貫して「アフガニスタン・イスラム首長国」を自称しつづけてきた。<ref>{{Cite web|date=22 September 2001|title=Taliban rejects Bush ultimatum|url=https://gulfnews.com/uae/taliban-rejects-bush-ultimatum-1.425373|url-status=live|access-date=2021-08-22|website=gulfnews.com|language=en}}</ref> |
|||
=== タリバン政権の復活 === |
|||
⚫ | |||
{{Main|2021年ターリバーン攻勢}} |
{{Main|2021年ターリバーン攻勢}} |
||
{{Main|アフガニスタン#歴史}} |
{{Main|アフガニスタン#歴史}} |
||
== 歴史 == |
|||
タリバンはその後も一貫して「アフガニスタン・イスラム首長国」を自称しつづけてきた。 |
|||
{{see also|アフガニスタンの歴史}} |
|||
{{See also|タリバンの歴史}} |
|||
===初期の歴史と民族紛争=== |
|||
タリバンとその支配は、ソビエト・アフガニスタン戦争後の混乱から生じた。それは、アフガニスタン南部のマドラサの学生で構成されたイスラム教とパシュトゥーン人の政治宗教運動として始まりだった。 圧倒的に民族的な[[パシュトゥーン人]]であるタリバーンは、パシュトゥーンワーリーの部族コードとサラフィストの教えの要素を融合させて、それが支配した反西洋および反現代のイスラム主義イデオロギーを形成した。 近隣のパキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦からの支援を受け始めた。 |
|||
タリバーンは、[[アフガニスタン]]の他の民族コミュニティの多くを外国人と見なしていた。パシュトゥーン人はアフガニスタンで最大の民族グループであり、タリバン運動の大部分を占めていた。タリバンが南部と南東部の拠点から拡大するにつれて、彼らはより多くの抵抗に遭遇した。 パシュトゥーンワーリーのパシュトゥーン部族コードに組み込まれた彼らのブランドのデオバンド派イスラム教は、アフガニスタンの他の民族グループによって外国人と見なされていた<ref>{{cite web|url=http://csis.org/blog/why-are-customary-pashtun-laws-and-ethics-causes-concern |title=Why are Customary Pashtun Laws and Ethics Causes for Concern? |access-date=15 February 2015 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20141021134341/http://csis.org/blog/why-are-customary-pashtun-laws-and-ethics-causes-concern |archive-date=21 October 2014 }}</ref><ref>{{cite web|author=Zahid|first=Farham|title=TRIBUNE LIBRE N°37 UNDERSTANDING TALIBAN THROUGH THE PRISM OF PASHTUNWALI CODE|url=http://www.cf2r.org/fr/tribune-libre/understanding-taliban-through-the-prism-of-pashtunwali-code.php|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20140810020924/http://www.cf2r.org/fr/tribune-libre/understanding-taliban-through-the-prism-of-pashtunwali-code.php|archive-date=10 August 2014|access-date=15 February 2015|website=www.cf2r.org}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.theage.com.au/world/wandering-kuchis-pay-for-their-taliban-links-20050827-ge0rmv.html|title=Wandering Kuchis pay for their Taliban links|date=27 August 2005|website=The Age}}</ref>。マザリシャリフの戦いは、この民族的緊張を示した<ref>{{Cite web|date=19 April 2013|title=Massacre in Mazar Sharif – 2|url=https://www.hazara.net/2013/04/massacre-in-mazar-sharif-2/|url-status=live|website=www.hazara.net}}</ref><ref>{{Cite book|last=Travis|first=Hannibal|url=https://books.google.com/books?id=NbWdlRL8WzMC&lpg=PA115|title=Genocide, Ethnonationalism, and the United Nations: Exploring the Causes of Mass Killing Since 1945|date=2013|publisher=Routledge|isbn=978-0-415-53125-2|pages=115|language=en|quote=The massacres in Mazar-i-Sharif alone in 1998 claimed 8,000–10,000 lives}}</ref>。 |
|||
⚫ | |||
===政権の樹立=== |
|||
タリバーンはカンダハールから広がり、1996年に最終的にカブールを占領した。2000年末までに、タリバーンは、主にバダフシャン州の北東隅にある野党(北部同盟)の拠点を除いて、国の90%を支配した。 タリバンの直接の支配下にある地域は、主にアフガニスタンの主要都市と高速道路でした。 部族のカーンと軍閥は、事実上、さまざまな小さな町、村、および農村地域を直接支配していた<ref>Griffiths 226.</ref> 。 タリバーンは、アフガニスタン全土に、法と秩序を確立し、イスラムのシャリーア法の厳格な解釈を、ムラー・モハメッド・オマールの宗教的勅令とともに課そうとした<ref name="Matinuddin">{{cite book |last=Matinuddin |first=Kamal |author-link=Kamal Matinuddin |year=1999 |title=The Taliban Phenomenon: Afghanistan 1994–1997 |chapter=The Taliban's Religious Attitude |chapter-url=https://books.google.com/books?id=BIyVMkjat2MC&pg=PA34 |location=[[Karachi]] |publisher=[[Oxford University Press]] |pages=34–43 |isbn=0-19-579274-2 |access-date=8 July 2020}}</ref>。 |
|||
イスラム首長国の5年間の歴史の中で、タリバーン政権はハナフィー学派のイスラム法学とムラー・オマールの宗教的勅令に従ってシャリーアを解釈した。 タリバンは、[[豚肉]]と[[アルコール]]、[[音楽]]、[[テレビ]]、[[映画]]<ref name="Matinuddin"/> 、などの多くの種類の消費者向け技術、および絵画や写真<ref name="Matinuddin"/> などのほとんどの芸術形態を禁止しました。男性と女性の参加スポーツではサッカーやチェスを含む<ref name="Matinuddin"/> 凧揚げや鳩や他のペットの飼育などの娯楽活動も禁止されており、タリバンの判決に従って鳥は殺された。映画館は閉鎖され、モスクとして再利用された<ref name="Matinuddin"/> 。西洋とイランの新年のお祝いは禁じられていた。タリバーンは偶像崇拝の一形態と見なしていたため、写真を撮ったり、写真や肖像画を表示したりすることは禁じられていた。 女性は働くこと、学校や大学に通うことを禁じられ<ref name="Matinuddin"/> 、パルダを観察し、男性の親戚が家の外に同行するように求められた。 これらの制限に違反した者は罰せられた<ref name="Matinuddin"/> 。 男性はひげを剃ることを禁じられており、タリバンの好みに応じてひげを成長させて長く保つこと、そして家の外でターバンを着用することを要求された<ref name="Matinuddin"/> <ref name="cr">{{cite web|url=https://2001-2009.state.gov/g/drl/rls/hrrpt/2001/sa/8222.htm |title=US Country Report on Human Rights Practices – Afghanistan 2001 |publisher=State.gov |date=4 March 2002 |access-date=4 March 2020}}</ref> 。共産主義者は体系的に処刑された。 祈りは強制され、アザーンの後に宗教的義務を尊重しなかった人々は逮捕された<ref name="Matinuddin"/> 。ギャンブルは禁止され<ref name="Matinuddin"/> 、泥棒は手や足を切断することで罰せられました<ref name="Matinuddin"/> 。 2000年、タリバーンの指導者ムラー・オマールはアフガニスタンでのアヘン栽培と麻薬密売を公式に禁止した<ref name="Matinuddin"/> <ref name="drugpolicy2005">{{cite journal |last1=Farrell |first1=Graham |last2=Thorne |first2=John |url=https://www.researchgate.net/publication/28576871 |title=Where Have All the Flowers Gone?: Evaluation of the Taliban Crackdown Against Opium Poppy Cultivation in Afghanistan |date=March 2005 |journal=[[International Journal of Drug Policy]] |publisher=[[Elsevier]] |volume=16 |issue=2 |pages=81–91 |doi=10.1016/j.drugpo.2004.07.007 |via=[[ResearchGate]] |access-date=8 July 2020}}</ref><ref name="Maziyar2019">{{cite book |last=Ghiabi |first=Maziyar |chapter=Crisis as an Idiom for Reforms |chapter-url=https://books.google.com/books?id=HoOWDwAAQBAJ&pg=PA101 |year=2019 |title=Drugs Politics: Managing Disorder in the Islamic Republic of Iran |location=[[Cambridge]] |publisher=[[Cambridge University Press]] |pages=101–102 |isbn=978-1-108-47545-7 |lccn=2019001098 |access-date=8 July 2020}}</ref> 。タリバーンは、2001年までにアヘン生産の大部分(99%)をほぼ根絶することに成功した<ref name="drugpolicy2005"/><ref name="Maziyar2019"/><ref>{{cite web|title=Afghanistan, Opium and the Taliban|url=http://opioids.com/afghanistan/index.html|url-status=live|access-date=4 March 2020|website=opioids.com}}</ref> 。アフガニスタンのタリバーン統治の下で、麻薬使用者とディーラーの両方が厳しく起訴された。 アフガニスタンのさまざまな州で伝統的に行われている少年愛の性的奴隷制と小児性愛の一種であるバッチャ・バーズィのアフガニスタンの慣習も、タリバン政権の6年間の統治下で禁じられていた。 |
|||
閣僚と副大臣は「マドラサ教育」を持ったムッラーでした。 保健大臣や州知事などの数人は、主に軍の司令官であり、必要に応じて戦うために行政のポストを離れる準備ができていました。 彼らを列の後ろに閉じ込めたり、彼らの死に導いた軍の逆転は、国家政権の混乱を増大させた。 全国レベルでは、「タジク、ウズベク、ハザラのすべての上級官僚」は「資格があるかどうかにかかわらず」「パシュトゥーン人」に置き換えられた。 その結果、省庁は「概して機能を停止した」。 |
|||
ラシッドはタリバーン政府を「カンダハリスによって運営されている秘密結社...神秘的で秘密主義的で独裁的」であると説明した。 彼らのスポークスマンが説明したように、彼らは選挙を行わなかった。 |
|||
== 政治 == |
== 政治 == |
||
1996年9月に首都[[カーブル]]を掌握すると、首都を脱出した旧政権([[アフガニスタン・イスラム国]]=[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]])に代わる暫定政権を発足させた。当初は、旧政権側との統一した政権ができるまでの暫定的措置として、新たに任じられた各省庁の長も「大臣代行」を称していたが、北部への進撃の過程で「大臣」に改め、1997年10月には最高指導者[[ムハンマド・オマル]]の首長即位と、国号の「アフガニスタン・イスラム首長国」への変更を宣言するに至った。 |
1996年9月に首都[[カーブル]]を掌握すると、首都を脱出した旧政権([[アフガニスタン・イスラム国]]=[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]])に代わる暫定政権を発足させた。当初は、旧政権側との統一した政権ができるまでの暫定的措置として、新たに任じられた各省庁の長も「大臣代行」を称していたが、北部への進撃の過程で「大臣」に改め、1997年10月には最高指導者[[ムハンマド・オマル]]の首長即位と、国号の「アフガニスタン・イスラム首長国」への変更を宣言するに至った。 |
2021年8月22日 (日) 05:02時点における版
この記事は最新の出来事(2021年ターリバーン攻勢)に影響を受ける可能性があります。 |
- アフガニスタン・イスラム首長国
- د افغانستان اسلامي امارت
-
← 1996年 - 2001年 → (国旗) (国章) - 国の標語: لا إله إلا الله محمد رسول الله
(lā ilāhā illā-llāhu; muhammadu rasūlu-llāhi)
(アラビア語:アッラーの他に神はなし、ムハンマドはアッラーの使徒なり) - 国歌: دا د باتورانو کور(事実上)
Dā də bātorāno kor
英訳:This is the Home of the Brave -
公用語 パシュトー語 首都 カーブル
カンダハール(事実上)通貨 アフガニ 国際電話番号 +93 現在 アフガニスタン
アフガニスタン・イスラム首長国(アフガニスタン・イスラムしゅちょうこく、パシュトー語: د افغانستان اسلامي امارت,英語:“Islamic Emirate of Afghanistan”)は、アフガニスタンの国土の8割を支配し、1996年9月に首都カブールを占領したターリバーン(タリバン)が採用した国号。日本では、首都カーブルを2001年に失陥するまでをタリバン政権と呼称するのが一般的。
概要
タリバン政権の樹立と統治
1996年から2001年の旧ターリバーン政権は、部分的に承認された国家として存在し、パキスタン、トルクメニスタン[1][2] 、サウジアラビア、アラブ首長国連邦によってのみ承認された[3] 。それは、イスラム法学派のハナフィー学派とグループの創設者であるモハメッド・オマールの宗教的命令に従って、イスラム宗教法(シャリーア)のデオバンド派の解釈によって支配された神学として運営されていました。 自由民主主義、世俗主義、そして西側諸国、特に米国とイスラエルへの反対が強く促進された[4][5]。この時期、キリスト教徒、シーア派イスラム教徒、仏教徒、シーク教徒、ヒンドゥー教徒などの非スンニ派イスラム教徒の少数派は、広範な宗教的差別や文化的虐殺、その他の形態の迫害に直面した。 タリバーンはまた、1500年前のバーミヤンの仏像など、数多くの記念碑や歴史的遺物を破壊した[6]。
政権の崩壊
2001年のアルカイダによるアメリカ同時多発テロ事件(9.11)後の米国による「対テロ戦争」の宣言に続いて、イスラム首長国を運営するタリバーン政権に対する国際的な批判が劇的に増加した。
2001年の米国主導のアフガニスタン侵攻は、タリバーンがアルカイダの指導者及び9.11の首謀者オサマ・ビンラディンを引き渡すことを要求したブッシュ政権の最後通告に従うことを拒否した後に起こった。2001年12月17日のトラボラ戦の終結は、北部同盟によるイスラム首長国の効果的な転覆を示した。北部同盟は、2か月前のアメリカの侵攻後に設立された国際治安支援部隊(ISAF)によって大いに強化されました。これにより、タリバンは国の大部分を喪失し、最終的にはアフガニスタン・イスラム共和国が形成された。ターリバーンは反乱軍として活動しているにもかかわらず、2001年12月の転覆から、2021年8月の政権復帰までのすべての公式通信において、一貫して「アフガニスタン・イスラム首長国」を自称しつづけてきた。[7]
タリバン政権の復活
2021年5月に攻勢を開始し、同年8月15日、ターリバーンはカーブルを陥落させ、パンジシール州を除くアフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言した[8]。
歴史
初期の歴史と民族紛争
タリバンとその支配は、ソビエト・アフガニスタン戦争後の混乱から生じた。それは、アフガニスタン南部のマドラサの学生で構成されたイスラム教とパシュトゥーン人の政治宗教運動として始まりだった。 圧倒的に民族的なパシュトゥーン人であるタリバーンは、パシュトゥーンワーリーの部族コードとサラフィストの教えの要素を融合させて、それが支配した反西洋および反現代のイスラム主義イデオロギーを形成した。 近隣のパキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦からの支援を受け始めた。
タリバーンは、アフガニスタンの他の民族コミュニティの多くを外国人と見なしていた。パシュトゥーン人はアフガニスタンで最大の民族グループであり、タリバン運動の大部分を占めていた。タリバンが南部と南東部の拠点から拡大するにつれて、彼らはより多くの抵抗に遭遇した。 パシュトゥーンワーリーのパシュトゥーン部族コードに組み込まれた彼らのブランドのデオバンド派イスラム教は、アフガニスタンの他の民族グループによって外国人と見なされていた[9][10][11]。マザリシャリフの戦いは、この民族的緊張を示した[12][13]。
政権の樹立
タリバーンはカンダハールから広がり、1996年に最終的にカブールを占領した。2000年末までに、タリバーンは、主にバダフシャン州の北東隅にある野党(北部同盟)の拠点を除いて、国の90%を支配した。 タリバンの直接の支配下にある地域は、主にアフガニスタンの主要都市と高速道路でした。 部族のカーンと軍閥は、事実上、さまざまな小さな町、村、および農村地域を直接支配していた[14] 。 タリバーンは、アフガニスタン全土に、法と秩序を確立し、イスラムのシャリーア法の厳格な解釈を、ムラー・モハメッド・オマールの宗教的勅令とともに課そうとした[15]。
イスラム首長国の5年間の歴史の中で、タリバーン政権はハナフィー学派のイスラム法学とムラー・オマールの宗教的勅令に従ってシャリーアを解釈した。 タリバンは、豚肉とアルコール、音楽、テレビ、映画[15] 、などの多くの種類の消費者向け技術、および絵画や写真[15] などのほとんどの芸術形態を禁止しました。男性と女性の参加スポーツではサッカーやチェスを含む[15] 凧揚げや鳩や他のペットの飼育などの娯楽活動も禁止されており、タリバンの判決に従って鳥は殺された。映画館は閉鎖され、モスクとして再利用された[15] 。西洋とイランの新年のお祝いは禁じられていた。タリバーンは偶像崇拝の一形態と見なしていたため、写真を撮ったり、写真や肖像画を表示したりすることは禁じられていた。 女性は働くこと、学校や大学に通うことを禁じられ[15] 、パルダを観察し、男性の親戚が家の外に同行するように求められた。 これらの制限に違反した者は罰せられた[15] 。 男性はひげを剃ることを禁じられており、タリバンの好みに応じてひげを成長させて長く保つこと、そして家の外でターバンを着用することを要求された[15] [16] 。共産主義者は体系的に処刑された。 祈りは強制され、アザーンの後に宗教的義務を尊重しなかった人々は逮捕された[15] 。ギャンブルは禁止され[15] 、泥棒は手や足を切断することで罰せられました[15] 。 2000年、タリバーンの指導者ムラー・オマールはアフガニスタンでのアヘン栽培と麻薬密売を公式に禁止した[15] [17][18] 。タリバーンは、2001年までにアヘン生産の大部分(99%)をほぼ根絶することに成功した[17][18][19] 。アフガニスタンのタリバーン統治の下で、麻薬使用者とディーラーの両方が厳しく起訴された。 アフガニスタンのさまざまな州で伝統的に行われている少年愛の性的奴隷制と小児性愛の一種であるバッチャ・バーズィのアフガニスタンの慣習も、タリバン政権の6年間の統治下で禁じられていた。
閣僚と副大臣は「マドラサ教育」を持ったムッラーでした。 保健大臣や州知事などの数人は、主に軍の司令官であり、必要に応じて戦うために行政のポストを離れる準備ができていました。 彼らを列の後ろに閉じ込めたり、彼らの死に導いた軍の逆転は、国家政権の混乱を増大させた。 全国レベルでは、「タジク、ウズベク、ハザラのすべての上級官僚」は「資格があるかどうかにかかわらず」「パシュトゥーン人」に置き換えられた。 その結果、省庁は「概して機能を停止した」。
ラシッドはタリバーン政府を「カンダハリスによって運営されている秘密結社...神秘的で秘密主義的で独裁的」であると説明した。 彼らのスポークスマンが説明したように、彼らは選挙を行わなかった。
政治
1996年9月に首都カーブルを掌握すると、首都を脱出した旧政権(アフガニスタン・イスラム国=北部同盟)に代わる暫定政権を発足させた。当初は、旧政権側との統一した政権ができるまでの暫定的措置として、新たに任じられた各省庁の長も「大臣代行」を称していたが、北部への進撃の過程で「大臣」に改め、1997年10月には最高指導者ムハンマド・オマルの首長即位と、国号の「アフガニスタン・イスラム首長国」への変更を宣言するに至った。
最高指導者のオマルは拠点のカンダハールに留まり、対外的な露出を抑え、「カンダハール・シューラ(指導者会議)」を主導し、首都カブールの「カブール・シューラ(統治評議会)」に指令を出す統治形態がとられた。統治評議会は、内閣に相当し、評議会議長(首相)と2名の副議長(副首相)、各省庁の大臣で構成され、ムハンマド・ラバニを議長とする政府を組織した。政府の閣僚・次官、中央銀行総裁などその他の政府機関の高官に就任したタリバーンの幹部は学歴や各分野への見識の深さではなく、オマルへの忠誠や内戦の論功行賞で選ばれた。また省庁の実務を支える官僚についても、パシュトゥーン人を優遇し、旧政権から表彰された役人を解雇し、給与も数か月間も遅配されるなど勤労意欲は下がり、行政機構は空洞化するに至った。
2001年当時の主要な閣僚
元首
内閣
1996年9月27日発足。2000年3月、8月内閣改造
- 統治評議会議長(首相) - ムハンマド・ラッバーニー(政権崩壊前の2001年4月に病死)
- 統治評議会第一副議長(第一副首相) - ムハンマド・ハッサン・アフンド
- 統治評議会第二副議長(第二副首相) - アブドゥル・カビール(議長の死去後、2001年11月の政権崩壊まで議長職を代行)
- 外相 - アブドゥル=ワキール・アフマド・ムタワッキル
- 内相 - アブドゥル=ラザン・アフンド
- 財務相 - アブドゥル=ワサイ・アガジャン・モタセム
- 教育相 - アミール・ハーン・ムッタキー
- 国防相 - ムッラー・ハッジ・ウバイドゥッラー・アフンド
- 勧善懲悪相 - ムハンマド・ワーリ
- 航空・観光相 - アフタル・ムハンマド・マンスール(2010年にターリバーンのナンバー2に就任、2015年7月に最高指導者に就任。2016年5月死亡)
- 通信・労働相 - アフマドゥッラー・モティ
- 情報・文化相 - クトラドゥッラー・ジャマール
- 保健相 - ムッラー・ムハンマド・アッバース・アフンド
- 司法相 - ヌールッディーン・トゥラービー
- 軽工業相・食糧相 - ハムドラ・ザーヒド
- 鉱工業相 - ムハンマド・イーサー・アフンド
- 農相・動物管理相 - アブドゥル=ラティーフ・マンスール
- 巡礼寄進相 - サイード・ギアスディン・アガー
- 計画相 - サドルッディーン・サイード
- 貿易相 - アブドゥル・ラッザーク
- 難民相 - アブドゥル・ラキブ
- 国境・部族問題相 - ジャラールッディーン・ハッカーニー
- 兵站相 - ヤル・ムハンマド
- 保安相 - ムハンマド・ファーズィル
- 高等教育相 - カリ・ディーン・ムハンマド
その他の役人
- 治安担当内務次官 - アブドゥル=サマード・ハクサル
- 中央軍司令官 - ムラー・アブドゥル・ラウフ
- 情報文化次官 - アブドゥル=ラフマーン・ハタック
- 国防次官 - アブドゥル=ガニ・バラダル
- 最高裁判所長官 - ヌールー・ムハンマド・サキーブ
- アフガニスタン中央銀行総裁 - ムッラー・ハッジ・アフマディー
- 駐国際連合使節[20] - アブドゥル=ハキーム・ムジャーヒド
- 欧州連合代表 - ラフマトゥッラー・サフィ
- 駐パキスタン大使 - アブドゥル=サラーム・ザイーフ
- アフガニスタン赤新月社総裁 - マウラヴィ・エスマトゥッラー・アセム
- アフガニスタン・オリンピック委員会委員長 - マウラヴィ・カラムッディン
国際関係
政府承認
以下の国のみが政権を承認した[21]。
その他に、2000年には、ロシア連邦と独立紛争を起こしていたチェチェン・イチケリア共和国を国際社会で初めて承認している。このため、ロシア政府はターリバーンをテロ組織に指定した[22]。
国土の90%以上を掌握したものの、過激な政策で国際的な承認が広がらなかったこともあり、アフガニスタンとしての国際連合の代表権は引き続き旧政権である北部同盟が保持し続けていた。
対日関係
日本国政府はタリバン政権側も北部同盟側も承認せず、1989年から駐カブールの大使館は閉鎖されたままであったが、国際機関を経由して経済援助は行ってきた[23]。政権崩壊直前の2001年4月にはNGO団体(国際医療ボランティア)のAMDAの招きにより、アッバス保健相が来日して、アフガニスタンへの医療支援を訴えている。
軍事
脚注
- ^ “Turkmenistan-Foreign Relations”. Globalsecurity. 2017年9月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。 Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ^ “Turkmenistan Takes a Chance on the Taliban”. Stratfor. 2019年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。 Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ^ Guelke, Adrian (25 August 2006). Terrorism and Global Disorder – Adrian Guelke – Google Libros. ISBN 9781850438038 2012年8月15日閲覧。
- ^ Nagamine, Yoshinobu (2016). The Legitimization Strategy of the Taliban's Code of Conduct: Through the One-Way Mirror. Palgrave Macmillan. pp. 19. ISBN 9781137530882
- ^ Jeffrey, Craig; Harriss, John (2014). Keywords for Modern India. Oxford University Press. pp. 77. ISBN 9780191643927
- ^ “The man who helped blow up the Bamiyan Buddhas” (英語). BBC News. (2015年3月12日) 2021年8月17日閲覧。
- ^ “Taliban rejects Bush ultimatum” (英語). gulfnews.com (2001年9月22日). 2021年8月22日閲覧。
- ^ “「全土を支配下に置いた」とタリバン”. 47NEWS. 共同通信社. (2021年8月15日) 2021年8月15日閲覧。
- ^ “Why are Customary Pashtun Laws and Ethics Causes for Concern?”. 2014年10月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月15日閲覧。
- ^ Zahid. “TRIBUNE LIBRE N°37 UNDERSTANDING TALIBAN THROUGH THE PRISM OF PASHTUNWALI CODE”. www.cf2r.org. 2014年8月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月15日閲覧。
- ^ “Wandering Kuchis pay for their Taliban links”. The Age (2005年8月27日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ^ “Massacre in Mazar Sharif – 2”. www.hazara.net (2013年4月19日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ^ Travis, Hannibal (2013) (英語). Genocide, Ethnonationalism, and the United Nations: Exploring the Causes of Mass Killing Since 1945. Routledge. pp. 115. ISBN 978-0-415-53125-2 . "The massacres in Mazar-i-Sharif alone in 1998 claimed 8,000–10,000 lives"
- ^ Griffiths 226.
- ^ a b c d e f g h i j k l Matinuddin, Kamal (1999). “The Taliban's Religious Attitude”. The Taliban Phenomenon: Afghanistan 1994–1997. Karachi: Oxford University Press. pp. 34–43. ISBN 0-19-579274-2 2020年7月8日閲覧。
- ^ “US Country Report on Human Rights Practices – Afghanistan 2001”. State.gov (2002年3月4日). 2020年3月4日閲覧。
- ^ a b Farrell, Graham; Thorne, John (March 2005). “Where Have All the Flowers Gone?: Evaluation of the Taliban Crackdown Against Opium Poppy Cultivation in Afghanistan”. International Journal of Drug Policy (Elsevier) 16 (2): 81–91. doi:10.1016/j.drugpo.2004.07.007 2020年7月8日閲覧。.
- ^ a b Ghiabi, Maziyar (2019). “Crisis as an Idiom for Reforms”. Drugs Politics: Managing Disorder in the Islamic Republic of Iran. Cambridge: Cambridge University Press. pp. 101–102. ISBN 978-1-108-47545-7. LCCN 2019-1098 2020年7月8日閲覧。
- ^ “Afghanistan, Opium and the Taliban”. opioids.com. 2020年3月4日閲覧。
- ^ ターリバーン政権は国際連合でのアフガニスタン政府としての代表権を主張したが、国際連合は旧政権の北部同盟にアフガンの代表権を引き続き与えたため、ターリバーンは使節(正式な大使ではない)という形式で国連に代表を派遣した。
- ^ Terrorism and Global Disorder – Adrian Guelke – Google Libros. Books.google.com 2018年6月8日閲覧。
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2021年8月18日). “ロシアがタリバンと協調姿勢 「裏庭」の安定確保 反欧米アピールも”. 産経ニュース. 2021年8月19日閲覧。
- ^ 毎日新聞2001年