「勝ち組」の版間の差分

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{{Otheruses|第2次世界大戦後の日系社会での思想|階級・社会階層意識・社会的地位|格差社会}}
{{独自研究|date=2016-03}}
'''勝ち組'''(かちぐみ)とは、1945年8月の[[ポツダム宣言]]受諾後も、[[日本]]の敗北を信ぜず、「日本は戦争に勝った」と信じていた[[在外日本人]]のグループのこと{{Sfn|諏訪|2010|p=68}}{{Sfn|国立国会図書館|2009}}。1945年8月に日本が[[ポツダム宣言]]を受諾して[[太平洋戦争]]が終結した後も、[[ブラジル]]を主とした[[南アメリカ|南米]]諸国や[[米国]][[ハワイ州]]などの[[日系人]]社会および外国で抑留されていた日本人の中には、敗戦という現実を受け入れられずに、「日本が[[連合国]]に勝った」と信じていた人々がいた{{Sfn|国立国会図書館|2009}}。こうした人々は「勝ち組」、'''戦勝派'''などと呼ばれた{{Sfn|諏訪|2010|p=68}}{{Sfn|国立国会図書館|2009}}。一方で、敗戦の事実を認識し、戦勝派を納得させようとした人たちは、'''認識派'''、'''負け組'''などと呼ばれた{{Sfn|諏訪|2010|p=68}}{{Sfn|国立国会図書館|2009}}。
{{Otheruses|第次世界大戦後の日系移民社会での思想|階級・社会階層意識・社会的地位|格差社会}}
'''勝ち組'''(かちぐみ)とは、[[第二次世界大戦]]後、[[日系人|日系]][[移民]]社会で「[[日本]]は戦争に勝った」と信じていた人々のこと。


== ブラジル ==
[[ブラジル]]を主とした[[南アメリカ|南米]]、および[[ハワイ州|ハワイ]]などの[[日系人]]社会で、[[太平洋戦争]]終結後、「[[日本]]がブラジルやアメリカ合衆国などの[[連合国軍]]に勝った」と信じていた人々がいた<ref name=ndl>[[国立国会図書館]] [http://www.ndl.go.jp/brasil/s6/s6_1.html ブラジル移民の100年 第6章 日系社会の分裂対立(1)] (2009)</ref>。こうした信念を持ち、1945年の[[ポツダム宣言]]受諾後にブラジルで流れた敗戦の知らせをデマとみなした人は「'''勝ち組'''」「'''戦勝派'''」「'''信念派'''」と呼ばれた。逆に「日本は負けた」と考えた人たちは「'''負け組'''」「'''敗希派'''」と呼ばれた<ref name=ndl/>。両者は対立し[[臣道連盟]]などの抗争に発展した<ref>諏訪三男 [http://hdl.handle.net/2065/33589 勝ち組,負け組抗争を通じたブラジル日本人移民の心性の変遷について--新しい精神の形成を求めて] 早稲田大学大学院社会科学研究科社学研論集 (16), 63-73, 2010</ref>。この軋轢はおさまった<ref name=oka>岡安彦三郎 [http://doi.org/10.4139/sfj1950.3.87 南米の視察より歸りて] 金属表面技術Vol. 3 (1952) No. 3 P 87-91 </ref>が「日系人社会の負の記憶」となった<ref>[[仁平尊明]]「[http://doi.org/10.4157/grj.83.654 丸山浩明編著:ブラジル日本移民――百年の軌跡――]」 地理学評論 Series AVol. 83 (2010) No. 6 P 654-655 </ref>。
ブラジルでは、1946年3月以降、戦勝派の過激分子・'''特行隊'''<ref>{{Harvtxt|国立国会図書館|2009}}では、日本からの短波放送で「トッコウタイ」という音を聞いて漢字を当てたとしている。</ref><ref>{{Harvtxt|諏訪|2010|p=68}}は、「フルネーム」は「特別行動隊」としている。</ref>による、認識派を狙ったテロ事件が頻発、同年7月末には日本人とブラジル人の間に騒乱事件が起きて戦勝派の組織・[[臣道連盟]]の会員が検挙され、ブラジル国民の対日本人感情が悪化した{{Sfn|国立国会図書館|2009}}。認識派は米国総領事館を通じて戦勝派の日本の親類・友人にはがきの送付を依頼し、また[[スウェーデン]]政府、米国務省、[[GHQ]]および日本政府も協力して、日本の新聞・映像フィルムを取り寄せるなどした結果、1947年1月の暗殺事件の後、対立は沈静化へ向かったが{{Sfn|国立国会図書館|2009}}<ref>{{Harvtxt|諏訪|2010|p=68}}では、同時期に{{仮リンク|トゥッパ (サンパウロ州)|label=サンパウロ州ツパーン|en|Tupã, São Paulo}}で日本人青年7人が或る農家にやってきたブラジルの「官憲の首領」を殺害したことが勝ち組と負け組の「抗争」のきっかけだった、としている。</ref>、対立の影響は1950年代半ばまで残った{{Sfn|国立国会図書館|2009}}<ref>{{Harvtxt|岡安|1952|p=90}}では、岡安がブラジルを訪問した1952年3-5月頃には、対立は既に収まっていた、としている。</ref>。


「戦勝」の思い込みの原因について、{{Harvtxt|諏訪|2010|pp=65-67}}は、
「戦勝」の思い込みの原因については、ブラジルでは1941年に日本語新聞が廃刊された後、連合国のプロパガンダを恐れポルトガル語紙を信用せず、(日本のプロパガンダが含まれるにもかかわらず)日本の短波放送だけを情報源として頼ってしまっていたことがあげれる<ref name=ndl/>。
*1931年の[[満州事変]]の後、ブラジルでは「日本からブラジルへの移民には侵略的な意図がある」との警戒感が広がり、排日論が高まって、[[ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス|ヴァルガス]]政権下の1934年に日本移民を制限する規定が連邦新憲法に盛り込まれ、また[[コンセッソン契約]]<ref>日本の各県がブラジルの農地を買い上げ、各県出身の日系移民に土地を割り当てるために締結していた契約({{Harvnb|諏訪|2010|pp=66-67}})</ref>に連邦議会上院の許可が必要になり、1938年には移民の同化を促す「外国人入国法」(Decreto-Lei nº 406)が施行されて日本人学校が閉鎖されるなど、日系人はブラジル社会の中で抑圧的な立場におかれ、日本が戦争に勝利して抑圧から解放されることへの期待感があったこと

*(1942年の)日本とブラジルの国交断絶後、日本領事館職員や移民会社の社員が帰国してしまっていたことから、1945年8月の終戦後に日本人社会が統制機関を欠いていたこと、精神的に不安定な状態に置かれたこと
== ブラジル ==
を挙げている。また{{Harvtxt|国立国会図書館|2009}}は、
{{出典の明記|date=2015-10|section=1}}
*1941年6月に日本語新聞が廃刊された後、[[ポルトガル語]]のメディアは連合国のプロパガンダだとして信用しなかった人々は、(日本のプロパガンダが含まれるにもかかわらず)情報源を日本の短波放送だけ頼ってしまっていたこと、デマが広がりやすくなっていたこと
{{TVWATCH}}
を挙げている。
終戦直後のブラジル日系移民社会では、日本が戦争に勝ったのか負けたのかを話題にすることは憚られている場合があったと伝えられており、勝ち組と負け組の対立は根強かった。1946年の[[サンパウロ新聞]]の正月号の社説には「日本戦勝の春」と題する社説が掲載された。他方、[[パウリスタ新聞]]<!--現在は廃刊-->は敗戦を伝えた。
<!-- 出典不明の記述をコメントアウト:
終戦直後のブラジル日系移民社会では、日本が戦争に勝ったのか負けたのかを話題にすることは憚られている場合があったと伝えられており、勝ち組と負け組の対立は根強かった。1946年の[[サンパウロ新聞]]の正月号の社説には「日本戦勝の春」と題する社説が掲載された。他方、[[パウリスタ新聞]]現在は廃刊は敗戦を伝えた。


ブラジルで「勝ち組」と呼ばれる人々が大量に生まれた原因はいくつか挙げられる。ブラジルでの日系1世らは現地のポルトガル語の読み書きができない人がほとんどで、日本語の読み書きすら十分にできない人も多く、日系人社会が現地で流通していているポルトガル語の新聞から全く情報を得ることができないような情報から隔絶した集団だったことや、戦時中「敵国人」として扱われていたための情報不足などが挙げられている。
ブラジルで「勝ち組」と呼ばれる人々が大量に生まれた原因はいくつか挙げられる。ブラジルでの日系1世らは現地のポルトガル語の読み書きができない人がほとんどで、日本語の読み書きすら十分にできない人も多く、日系人社会が現地で流通していているポルトガル語の新聞から全く情報を得ることができないような情報から隔絶した集団だったことや、戦時中「敵国人」として扱われていたための情報不足などが挙げられている。
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<!-- テレビ番組由来の記述をコメントアウト:
移民たちは日本から事実上の国策として移民したが、過酷な状況と貧困状態の中で帰国を望むものは多く、「日本から捨てられた」と感じる移民もいた。もしも日本が負けたとなれば「日本は消失し、そもそも帰る祖国が無くなってしまう」と考える人も多かった。日本に帰国する運動を推進していた人の中には、日本の敗戦を知り自殺した人もいた。敗戦を認めることは自らの人生を否定することを意味していた{{Sfn|NHK BS1スペシャル|2014}}


日本から遥か離れたブラジルで、移民のほとんど唯一の[[情報源]]は日本が[[短波]]で日本国外向けに放送していた[[NHKワールド・ラジオ日本|ラジオ・トウキョウ]]だった。これらの放送が受信できたは短波ラジオは当時、大変高価であり普及していなかった。また、報じられた戦争報道というのが[[大本営発表]]による「日本有利」の戦況で、それをそのまま信じていた。そして戦後になって[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)が放送を中止させたためにブラジル移民社会への情報の遮断が起こり、日系人の間で日本についての情報が不足した。また当時ブラジルではヴァルガス大統領の下に[[国粋主義]]政策がとられ、街頭でポルトガル語以外の外国語(日本語以外の言語も含め)会話が憚られた{{Sfn|NHK BS1スペシャル|2014}}
移民たちは日本から事実上の国策として移民したが、過酷な状況と貧困状態の中で帰国を望むものは多く、「日本から捨てられた」と感じる移民もいた。もしも日本が負けたとなれば「日本は消失し、そもそも帰る祖国が無くなってしまう」と考える人も多かった。日本に帰国する運動を推進していた人の中には、日本の敗戦を知り自殺した人もいた。敗戦を認めることは自らの人生を否定することを意味していた<ref name="tooisokoku">NHK、BS1スペシャル「遠い祖国~ブラジル日系人構想の真実~」前編・後編 2014年8月15日および16日放送</ref>


終戦から2ヵ月後の1945年10月3日、日本からはじめて敗戦を伝える公式文書が届いた。この終戦の伝達書は『詔勅』と題された縦書きの文書で、天皇による終戦の詔勅が書かれていた。それには「朕は帝国政府ヲシテ北米合衆国・大ブリテン国・支那...右諸国共同宣言ノ条項を受諾ス...」と書かれてあり、いわゆる[[ポツダム宣言]]を受諾する旨が書かれてあった。その文書とは別に、文書に添えるかたちで「在伯同胞諸君」に始まり、10月4日の日付と、秘密結社[[興道社]]の指導者でバストス産業組合理事長だった退役陸軍大佐の[[脇山甚作]]ほか計7名の署名でしめくくる文書も作られた{{Sfn|NHK BS1スペシャル|2014}}
日本から遥か離れたブラジルで、移民のほとんど唯一の[[情報源]]は日本が[[短波]]で日本国外向けに放送していた[[NHKワールド・ラジオ日本|ラジオ・トウキョウ]]だった。これらの放送が受信できたは短波ラジオは当時、大変高価であり普及していなかった。また、報じられた戦争報道というのが[[大本営発表]]による「日本有利」の戦況で、それをそのまま信じていた。そして戦後になって[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)が放送を中止させたためにブラジル移民社会への情報の遮断が起こり、日系人の間で日本についての情報が不足した。また当時ブラジルではヴァルガス大統領の下に[[国粋主義]]政策がとられ、街頭でポルトガル語以外の外国語(日本語以外の言語も含め)会話が憚られた<ref name="tooisokoku" />


この文書は次第にサンパウロ州に散在する日系移民社会に配布されていった。当時日系移民の9割はサンパウロ市内ではなく、海岸からはるかに離れた西方の奥地の日本人集団地に暮らしていた。このサンパウロ州奥地に暮らしていた日系移民のほとんどが日本の勝利を絶対に信じており「勝ち組」と呼ばれる人々だった。彼らの多くが日本が負けるとは夢にも思っておらず、ただひたすらに「日本は勝つ」と考えていた。当時の「勝ち組」のひとりである中野文雄はNHKの取材に応じて「今から考えれば、一種の迷信を信じた、ということになるのだが、神国日本が戦いに負けるはずはない、と思った」と言い、絶対的な信仰状態だったと語った。サンパウロ州奥地の移民の多くが、この終戦伝達書を偽書だと見なした。移民の中でも成功して裕福でラジオを持っていたり新聞を読んでいたりする人が日本の負けを認め「負け組」になる傾向があり、移民の中の貧乏でラジオも買えず、教育程度が低く新聞も読めない多数派の人々が「勝ち組」になる傾向があった{{Sfn|NHK BS1スペシャル|2014}}
終戦から2ヵ月後の1945年10月3日、日本からはじめて敗戦を伝える公式文書が届いた。この終戦の伝達書は『詔勅』と題された縦書きの文書で、天皇による終戦の詔勅が書かれていた。それには「朕は帝国政府ヲシテ北米合衆国・大ブリテン国・支那...右諸国共同宣言ノ条項を受諾ス...」と書かれてあり、いわゆる[[ポツダム宣言]]を受諾する旨が書かれてあった。その文書とは別に、文書に添えるかたちで「在伯同胞諸君」に始まり、10月4日の日付と、秘密結社[[興道社]]の指導者でバストス産業組合理事長だった退役陸軍大佐の[[脇山甚作]]ほか計7名の署名でしめくくる文書も作られた<ref name="tooisokoku" />


日本が敗れた事実を認める「負け組」の人々の中に、コチア産業組合の人々もあり、彼らは、日本は負けたという事実を移民に早く認識させるための「認識運動」を起こした{{Sfn|NHK BS1スペシャル|2014}}
この文書は次第にサンパウロ州に散在する日系移民社会に配布されていった。当時日系移民の9割はサンパウロ市内ではなく、海岸からはるかに離れた西方の奥地の日本人集団地に暮らしていた。このサンパウロ州奥地に暮らしていた日系移民のほとんどが日本の勝利を絶対に信じており「勝ち組」と呼ばれる人々だった。彼らの多くが日本が負けるとは夢にも思っておらず、ただひたすらに「日本は勝つ」と考えていた。当時の「勝ち組」のひとりである中野文雄はNHKの取材に応じて「今から考えれば、一種の迷信を信じた、ということになるのだが、神国日本が戦いに負けるはずはない、と思った」と言い、絶対的な信仰状態だったと語った。サンパウロ州奥地の移民の多くが、この終戦伝達書を偽書だと見なした。移民の中でも成功して裕福でラジオを持っていたり新聞を読んでいたりする人が日本の負けを認め「負け組」になる傾向があり、移民の中の貧乏でラジオも買えず、教育程度が低く新聞も読めない多数派の人々が「勝ち組」になる傾向があった<ref name="tooisokoku" />

日本が敗れた事実を認める「負け組」の人々の中に、コチア産業組合の人々もあり、彼らは、日本は負けたという事実を移民に早く認識させるための「認識運動」を起こした<ref name="tooisokoku" />


「勝ち組」の人々と「負け組」の人々は激しく対立した。かたくなに「日本は勝っている」と信じる人々の中には[[臣道連盟]]に参加する人々もいた。その数2万人におよび、サンパウロ州の奥地まで支部が次々と設立され、63支部に及んだ。「勝ち組」の人々は、「認識運動」を行う人々の家の門や玄関に「国賊」と落書きする、商売の邪魔をする、脅迫状を投げ込む、などということまで始めた。脅迫状は例えば、次のような内容だった。
「勝ち組」の人々と「負け組」の人々は激しく対立した。かたくなに「日本は勝っている」と信じる人々の中には[[臣道連盟]]に参加する人々もいた。その数2万人におよび、サンパウロ州の奥地まで支部が次々と設立され、63支部に及んだ。「勝ち組」の人々は、「認識運動」を行う人々の家の門や玄関に「国賊」と落書きする、商売の邪魔をする、脅迫状を投げ込む、などということまで始めた。脅迫状は例えば、次のような内容だった。
:「(相手の名前)... に忠告する。日本必勝の信念に帰れ。しからずんば天誅下らん<ref name="tooisokoku" />。」
:「(相手の名前)... に忠告する。日本必勝の信念に帰れ。しからずんば天誅下らん{{Sfn|NHK BS1スペシャル|2014}}。」


[[1946年]]には、ブラジルの勝ち組と負け組の間で大規模な[[抗争事件]]が起こり、死者も出た(参照:[[日系ブラジル人]]、[[臣道連盟]])。[[1946年]]3月7日にサンパウロ州北西部の[[バストス]]産業組合の理事、溝部幾太が暗殺されるという最初の暗殺事件が起き、犯人はバストゥスに住む「勝ち組」の青年だった。この溝部幾太の暗殺をきっかけとしてサンパウロ州全域で襲撃事件が多発し、「負け組」による報復も起きた<ref name="tooisokoku" />
[[1946年]]には、ブラジルの勝ち組と負け組の間で大規模な[[抗争事件]]が起こり、死者も出た(参照:[[日系ブラジル人]]、[[臣道連盟]])。[[1946年]]3月7日にサンパウロ州北西部の[[バストス]]産業組合の理事、溝部幾太が暗殺されるという最初の暗殺事件が起き、犯人はバストゥスに住む「勝ち組」の青年だった。この溝部幾太の暗殺をきっかけとしてサンパウロ州全域で襲撃事件が多発し、「負け組」による報復も起きた{{Sfn|NHK BS1スペシャル|2014}}


敗戦伝達書に筆頭者として署名した[[脇山甚作]]も「勝ち組」に襲われた。脇山甚作は日本を勝利させ"大東亜共栄圏"に日本人を再移住させることを移民たちに説いてきた人物だった。脇山の家にはほとんどの移民が持っていなかったラジオがあったため、8月15日直後の[[玉音放送]]を聞いた。心情的には日本の負けを認めたくなかったものの、放送を聞いた以上事実として認めざるを得ず、ひどく落胆したものの、自身は移民のリーダーとして事実を移民たちに伝える責任があると考えた。サンパウロ州奥地の移民たちは、元軍人であり日本は絶対に勝つと移民たちを鼓舞してきたのにもかかわらず突然に「日本は敗れた」と言いだした脇山甚作のことを、敵国の側についた裏切り者だと見なした<ref name="tooisokoku" />
敗戦伝達書に筆頭者として署名した[[脇山甚作]]も「勝ち組」に襲われた。脇山甚作は日本を勝利させ"大東亜共栄圏"に日本人を再移住させることを移民たちに説いてきた人物だった。脇山の家にはほとんどの移民が持っていなかったラジオがあったため、8月15日直後の[[玉音放送]]を聞いた。心情的には日本の負けを認めたくなかったものの、放送を聞いた以上事実として認めざるを得ず、ひどく落胆したものの、自身は移民のリーダーとして事実を移民たちに伝える責任があると考えた。サンパウロ州奥地の移民たちは、元軍人であり日本は絶対に勝つと移民たちを鼓舞してきたのにもかかわらず突然に「日本は敗れた」と言いだした脇山甚作のことを、敵国の側についた裏切り者だと見なした{{Sfn|NHK BS1スペシャル|2014}}


奥地から出てきた青年数人組が脇山の自宅をおとずれ「自決勧告書」なる「敵側が発するニセの文書に騙されそれに署名することは万死に値するから自殺しろ」という内容を主張する文書を渡し、ピストルで射殺した。犯人は自首し、殺人犯として逮捕され、投獄された<ref name="tooisokoku" />
奥地から出てきた青年数人組が脇山の自宅をおとずれ「自決勧告書」なる「敵側が発するニセの文書に騙されそれに署名することは万死に値するから自殺しろ」という内容を主張する文書を渡し、ピストルで射殺した。犯人は自首し、殺人犯として逮捕され、投獄された{{Sfn|NHK BS1スペシャル|2014}}


「勝ち組」によって殺された人々は少なくとも15人にも及んだ。戦後数年を経て社会的に問題になる事件は次第に下火になっていったが、一部では騒ぎが十年近く続いた<ref name="tooisokoku" />
「勝ち組」によって殺された人々は少なくとも15人にも及んだ。戦後数年を経て社会的に問題になる事件は次第に下火になっていったが、一部では騒ぎが十年近く続いた{{Sfn|NHK BS1スペシャル|2014}}
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<!-- リンク切れ外部サイト(私設ブログ?)由来の記述をコメントアウト:
この対立を利用して、偽ニュース売り、偽土地売り、偽円売りなど、日本人が日本人をだます詐欺犯罪が続発し、[[:pt:Departamento de Ordem Política e Social|DOPS]](ブラジルの[[特高]])の手入れを受ける事態にまで発展した。ブラジルでは[[1970年代]]初期まで<!--<ref>代に誇張あり</ref>←なら、誇張でない年代に書き換えましょう-->、勝ち組と負け組の対立による後遺症が存在していた<ref>{{cite web
この対立を利用して、偽ニュース売り、偽土地売り、偽円売りなど、日本人が日本人をだます詐欺犯罪が続発し、{{仮リンク|ブラジルの特別高等警察|label=DOPS(ブラジルの特高)|pt|Departamento de Ordem Política e Social|}}の手入れを受ける事態にまで発展した。ブラジルでは{{要検証範囲|1970年代初期まで|date=20167月}}、勝ち組と負け組の対立による後遺症が存在していた{{Sfn|ブラジル通信|2001}}。
| date =2001-12-28
-->
| url =http://www5b.biglobe.ne.jp/~ykchurch/sgc/brasil/brasil_11_011228.htm
なお、[[高度経済成長#日本の高度経済成長期|高度経済成長期]]末の[[1973年]]にブラジルから日本に帰国した「勝ち組」の家族3組が「ほら見ろ、日本はこんなに豊かになっている、やっぱり日本は勝ったんだ。」といった趣旨の発言をしていたという{{Sfn|高木|1991|p=あとがき}}。
| title =第11号 いまなお残る「臣道連盟」の後遺症
<!-- 出典のない記述をコメントアウト:
| publisher =ブラジル通信
{{要出典範囲|ただし、この当時にはすでに日本の[[敗戦]]とその後の復興が一般に知られており、このような発言は当時の日系移民社会でも時代錯誤と受け取られ、かえって話題になった。|date=2015年10月}}-->
| accessdate=2010年1月11日
}}</ref>{{リンク切れ|date=2015-10}}{{信頼性要検証|date=2015-10}}。

なお、[[高度経済成長#日本の高度経済成長期|高度経済成長期]]末の[[1973年]]にブラジルから日本に帰国した「勝ち組」の家族3組が「ほら見ろ、日本はこんなに豊かになっている、やっぱり日本は勝ったんだ。」といった趣旨の発言をしたという<ref>{{Cite book|和書
|author=[[高木俊朗]]
|year=1991
|title=狂信 ブラジル日本移民の騒乱
|publisher=ファラオ企画
|pages=あとがき
}}
</ref>。ただし、この当時にはすでに日本の[[敗戦]]とその後の復興が一般に知られており、このような発言は当時の日系移民社会でも時代錯誤と受け取られ、かえって話題になった。


== ペルー ==
== ペルー ==
{{Harvtxt|岡安|1952|p=90}}は、[[ペルー]]では1945年8月15日以降、勝ち組と負け組の対立が起こり、1952年3-5月に岡安が現地を訪問したときにも、ペルーの在留日本人7,000-10,000人の中に勝ち組の人がなお700-800人残っていて、ペルーを訪問した岡安のもとへ勝ち組の人が面会に来たが、事情を説明しても日本が負けたことに納得しない人もいた、と報告している。


同書では、勝ち組が生まれた原因として、終戦の頃、[[上海]]方面から、主として[[ユダヤ人]]が日本紙幣の売込みに来て、日本紙幣を買わせるために当時の[[大本営]]発表を誇張して日本が勝利するかのように伝え、日本の軍艦が日系人を迎えにやって来るなど吹聴したことを挙げている{{Sfn|岡安|1952|p=90}}。
[[ペルー]]では昭和20年の8月15日から勝ち組と負け組の対立が起こり、勝ち組がブラジルより長く残っていると岡安彦三郎が1952年に報告した<ref name=oka/>。


勝ち組の人々は、[[紀元節]]を祝い[[教育勅語]]を読むなど戦前のままの思想・教育を続けており、ペルー政府からも懸念されていたという{{Sfn|岡安|1952|p=90}}。
<!-- 出典のない記述をコメントアウト:
== ハワイ ==
== ハワイ ==
{{要出典範囲|ハワイでは、終戦から10年経過した後も「勝ち組」は存在したと言われている。その後、正しい情報の流入によって日本の敗戦の現実を知り、自然消滅した。|date=2015年10月}} -->
{{出典の明記|date=2015-10|section=1}}
==関連メディア==
ハワイでは、終戦から10年経過した後も「勝ち組」は存在したと言われている。その後、正しい情報の流入によって日本の敗戦の現実を知り、自然消滅した。
* {{Cite book|和書|last= 丸山 |year= 2010 |first= 浩明 |authorlink= |editor= 丸山浩明 |coauthors= |translator= |title= ブラジル日系移民‐百年の軌跡 |publisher= 明石書店 |series= |volume= |location= |date= |page= |pages= |id= |isbn= 4750332372 |quote= |ref=harv}}‐{{Harvtxt|仁平|2010}}は書評。
== 参考文献 ==
* {{Cite web|author= プロジェクト |year= 2010 |url= http://jp2br.net/ |title= jp2br.net |publisher= 「ブラジル日本人移民百年の軌跡 – ブラジルにおける日系移民資料の分析・保存とデジタルアーカイブ構築」プロジェクト |accessdate= 2016-07-16 |ref=harv}}‐{{Harvtxt|仁平|2010|p=655}}で紹介されている。
{{参照方法|date=2015-05}}
* [[太田恒夫]]『「日本は降伏していない」―ブラジル日系人社会を揺るがせた十年抗争』([[文藝春秋]]、1995年、ISBN 4163501703)


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==

* {{Cite journal|和書|last= 諏訪 |year= 2010 |first= 三男 |authorlink= |date= 2010-09-25 |title= 勝ち組,負け組抗争を通じたブラジル日本人移民の心性の変遷について -新しい精神の形成を求めて- |journal= 社学研論集 |volume= 16 |issue= |pages= 63-73 |publisher= 早稲田大学大学院社会科学研究科 |location= |issn= |doi= |naid= |pmid= |id= |url= http://hdl.handle.net/2065/33589 |format= |accessdate= 2016-07-15 |quote= |ref=harv}}
==外部リンク==
* {{Cite journal|和書|last= 仁平 |year= 2010 |first= 尊明 |authorlink= |date= 2010 |title= 丸山浩明編著:ブラジル日本移民‐百年の軌跡‐ |journal= 地理学評論 Series A |volume= 83 |issue= 6 |pages= 654-655 |publisher= [[日本地理学会]] |location= |issn= |doi= 10.4157/grj.83.654 |naid= |pmid= |id= |url= https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj/83/6/83_6_654/_pdf |format= pdf |accessdate= 2016-07-15 |quote= |ref=harv}}
* [[国立国会図書館]] [http://www.ndl.go.jp/brasil/s6/s6_1.html ブラジル移民の100年 第6章 日系社会の分裂対立(1)] (2009)
* {{Cite web|author= [[国立国会図書館]] |year= 2009 |url= http://www.ndl.go.jp/brasil/s6/s6_1.html |title= ブラジル移民の100年第6章 日系社会の分裂対立(1) 勝ち組と負け組 |publisher= [[国立国会図書館]] |accessdate= 2016-07-14 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last= 太田 |year= 1995 |first= 恒夫 |authorlink= |coauthors= |translator= |title= 「日本は降伏していない」‐ブラジル日系人社会を揺るがせた十年抗争 |publisher= [[文藝春秋]] |series= |volume= |location= |date= |page= |pages= |id= |isbn= 4163501703 |quote= |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last= 高木 |year= 1991 |first= 俊朗 |authorlink= 高木俊朗 |title= 狂信:ブラジル日本移民の騒乱 |publisher= ファラオ企画 |series= ファラオ原点叢書 |volume= 2 |isbn= 489409102 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|last= 岡安 |year= 1952 |first= 彦三郎 |authorlink= |date= 1952-06 |title= 南米の視察より歸りて |journal= 金属表面技術 |volume= 3 |issue= 3 |pages= 87-91 |publisher=表面技術協会 |location= |issn= |doi= 10.4139/sfj1950.3.87 |naid= |pmid= |id= |url= https://www.jstage.jst.go.jp/article/sfj1950/3/3/3_3_87/_pdf |format= pdf |accessdate= 2016-07-14 |quote= |ref=harv}}
<!-- {{TVWATCH}}のため、コメントアウト。ビデオなどが発売されれば出典にできると思うので残しておく。:
* {{cite video|people= NHK BS1スペシャル |year= 2014a |date= 2014-08-15 |title= 遠い祖国~ブラジル日系人構想の真実~ 前編 |medium= |location= |url = |publisher= [[NHK]] |accessdate= |ref= harv}}
* {{cite video|people= NHK BS1スペシャル |year= 2014b |date= 2014-08-16 |title= 遠い祖国~ブラジル日系人構想の真実~ 後編 |medium= |location= |url = |publisher= [[NHK]] |accessdate= |ref= harv}} -->
<!-- リンク切れ。外部の私設サイトのようでもある。ので、コメントアウト。:
* {{cite web|author= ブラジル通信 |year= 2001 |url =http://www5b.biglobe.ne.jp/~ykchurch/sgc/brasil/brasil_11_011228.htm |title =第11号 いまなお残る「臣道連盟」の後遺症 |publisher = ブラジル通信 |date =2001-12-28 |accessdate= 2010年1月11日 |ref= harv}} -->


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2016年7月16日 (土) 13:40時点における版

勝ち組(かちぐみ)とは、1945年8月のポツダム宣言受諾後も、日本の敗北を信ぜず、「日本は戦争に勝った」と信じていた在外日本人のグループのこと[1][2]。1945年8月に日本がポツダム宣言を受諾して太平洋戦争が終結した後も、ブラジルを主とした南米諸国や米国ハワイ州などの日系人社会および外国で抑留されていた日本人の中には、敗戦という現実を受け入れられずに、「日本が連合国に勝った」と信じていた人々がいた[2]。こうした人々は「勝ち組」、戦勝派などと呼ばれた[1][2]。一方で、敗戦の事実を認識し、戦勝派を納得させようとした人たちは、認識派負け組などと呼ばれた[1][2]

ブラジル

ブラジルでは、1946年3月以降、戦勝派の過激分子・特行隊[3][4]による、認識派を狙ったテロ事件が頻発、同年7月末には日本人とブラジル人の間に騒乱事件が起きて戦勝派の組織・臣道連盟の会員が検挙され、ブラジル国民の対日本人感情が悪化した[2]。認識派は米国総領事館を通じて戦勝派の日本の親類・友人にはがきの送付を依頼し、またスウェーデン政府、米国務省、GHQおよび日本政府も協力して、日本の新聞・映像フィルムを取り寄せるなどした結果、1947年1月の暗殺事件の後、対立は沈静化へ向かったが[2][5]、対立の影響は1950年代半ばまで残った[2][6]

「戦勝」の思い込みの原因について、諏訪 (2010, pp. 65–67)は、

  • 1931年の満州事変の後、ブラジルでは「日本からブラジルへの移民には侵略的な意図がある」との警戒感が広がり、排日論が高まって、ヴァルガス政権下の1934年に日本移民を制限する規定が連邦新憲法に盛り込まれ、またコンセッソン契約[7]に連邦議会上院の許可が必要になり、1938年には移民の同化を促す「外国人入国法」(Decreto-Lei nº 406)が施行されて日本人学校が閉鎖されるなど、日系人はブラジル社会の中で抑圧的な立場におかれ、日本が戦争に勝利して抑圧から解放されることへの期待感があったこと
  • (1942年の)日本とブラジルの国交断絶後、日本領事館職員や移民会社の社員が帰国してしまっていたことから、1945年8月の終戦後に日本人社会が統制機関を欠いていたこと、精神的に不安定な状態に置かれたこと

を挙げている。また国立国会図書館 (2009)は、

  • 1941年6月に日本語新聞が廃刊された後、ポルトガル語のメディアは連合国のプロパガンダだとして信用しなかった人々は、(日本のプロパガンダが含まれるにもかかわらず)情報源を日本の短波放送だけに頼ってしまっていたことから、デマが広がりやすくなっていたこと

を挙げている。 なお、高度経済成長期末の1973年にブラジルから日本に帰国した「勝ち組」の家族3組が、「ほら見ろ、日本はこんなに豊かになっている、やっぱり日本は勝ったんだ。」といった趣旨の発言をしていたという[8]

ペルー

岡安 (1952, p. 90)は、ペルーでは1945年8月15日以降、勝ち組と負け組の対立が起こり、1952年3-5月に岡安が現地を訪問したときにも、ペルーの在留日本人7,000-10,000人の中に勝ち組の人がなお700-800人残っていて、ペルーを訪問した岡安のもとへ勝ち組の人が面会に来たが、事情を説明しても日本が負けたことに納得しない人もいた、と報告している。

同書では、勝ち組が生まれた原因として、終戦の頃、上海方面から、主としてユダヤ人が日本紙幣の売込みに来て、日本紙幣を買わせるために当時の大本営発表を誇張して日本が勝利するかのように伝え、日本の軍艦が日系人を迎えにやって来るなど吹聴したことを挙げている[9]

勝ち組の人々は、紀元節を祝い教育勅語を読むなど戦前のままの思想・教育を続けており、ペルー政府からも懸念されていたという[9]

関連メディア

  • 丸山, 浩明 著、丸山浩明 編『ブラジル日系移民‐百年の軌跡』明石書店、2010年。ISBN 4750332372 仁平 (2010)は書評。
  • プロジェクト (2010年). “jp2br.net”. 「ブラジル日本人移民百年の軌跡 – ブラジルにおける日系移民資料の分析・保存とデジタルアーカイブ構築」プロジェクト. 2016年7月16日閲覧。仁平 (2010, p. 655)で紹介されている。

脚注

  1. ^ a b c 諏訪 2010, p. 68.
  2. ^ a b c d e f g 国立国会図書館 2009.
  3. ^ 国立国会図書館 (2009)では、日本からの短波放送で「トッコウタイ」という音を聞いて漢字を当てたとしている。
  4. ^ 諏訪 (2010, p. 68)は、「フルネーム」は「特別行動隊」としている。
  5. ^ 諏訪 (2010, p. 68)では、同時期にサンパウロ州ツパーン英語版で日本人青年7人が或る農家にやってきたブラジルの「官憲の首領」を殺害したことが勝ち組と負け組の「抗争」のきっかけだった、としている。
  6. ^ 岡安 (1952, p. 90)では、岡安がブラジルを訪問した1952年3-5月頃には、対立は既に収まっていた、としている。
  7. ^ 日本の各県がブラジルの農地を買い上げ、各県出身の日系移民に土地を割り当てるために締結していた契約(諏訪 2010, pp. 66–67)
  8. ^ 高木 1991, p. あとがき.
  9. ^ a b 岡安 1952, p. 90.

参考文献