臣道連盟
臣道連盟(しんどうれんめい)とは、ブラジル在住の日本人移民間で、太平洋戦争での日本敗戦を信じない者(「勝ち組」)の間に形成された国粋的団体。正しくは臣道聯盟と書く。
目次 |
[編集] 情報の遮断
1941年の太平洋戦争開戦に伴い、日本とブラジルは断交。駐在公館が次々に閉鎖し、大使を始め日本政府外交団が第三国のヨーロッパに退避する中で、日本人移民は取り残された。日本人が多く住むサンパウロ州では、戦時特別取締令により、国歌の演奏、天皇の肖像の掲載が禁止された。日本語の使用も禁止され、ポルトガル語の使用を強要された。このため、公の集会はほとんど開けなかった。唯一の情報源でもあった日本語で書かれた新聞、雑誌の配布も禁止されたことで、9割の日本人移民者は完全に情報から遮断された。 戦争終結までの4年間で、移民者が入手できた情報は短波放送だけだったが、ラジオは高価な上に性能も悪く、聞いてもほとんど推測の域を出ないことも多かった。
ブラジル政府の厳しい同化政策、戦時中敵性国人として受けた規制と圧迫に耐えてきた移民にとっては、敗戦は日本人としての生きる道の喪失を意味していた。このため、情報が遮断されている中で、次第に日本勝利を信じるようになっていく。
[編集] 組織の結成
臣道連盟の創立日には諸説あるが、日本の敗色が濃く、ブラジルで戦勝デマが頻発しだした1945年7月頃とみられる。本部はサンパウロ市に置かれ、サンパウロ州内陸の小都市、農村部に50を越える支部を作った。会員は家長のみ3万、家族を入れると12万にもなったと称していた。彼らは、日系人移民に対して忠君愛国の思想を鼓舞すると同時に、各種のデマを飛ばした。大政翼賛会を模範とした構造を持ち、諸団体を統合してテロ行動を指揮していた。
[編集] 「負け組」への攻撃
戦時中、異常な高値を呼んだハッカと生糸は、軍需品となり、アメリカを助けることとなった。これを利敵産業とみなし、旧帝国軍人を中心にこれを生産する日本人は国賊というデマを飛ばし、養蚕小屋の破壊活動などの犯罪を犯した。 1945年の終戦後には、祖国の敗戦を信じない者が8割から9割もいて、各地に「勝ち組」団体が発生。敗戦を唱える認識派を攻撃し、ときには天誅の名でリーダーを暗殺した。23人を暗殺し、147人の負傷者を出すに至り、臣道連盟幹部は次々に検挙された。ブラジル軍事警察は、これらの日本人の犯罪に約3万件の嫌疑をかけ、最終的に381人の人々に30年の刑を科した。そのたびに再組織化がはかられたが、1946年末ごろまでには中央の組織は壊滅した。
[編集] 影響
この事件はブラジルの日本移民社会においては現在でもタブーであり、半世紀もの間、移民一世の間で封印されてきた。日系人社会がある程度の落ち着きを取り戻したのは、新たな戦後移民を迎えた1960年頃になってからのことである。この「臣道連盟」を中心とする勝ち組と負け組の争いは尾を引き、地方によっては現在もしこりを残しているという。
また、勝ち組一世の子供の世代の認識が問題にされることもある。すなわち、幼年期に親たちが主張していた勝ち組思想や、それに基づいた人物評を聞かされて育った者の中には、認識派を排除するようなことはないものの、事実を誤認しているケースが見られる。彼らの一部は、現今言われている移民史に異を唱えることがある。その際の論拠は「親が言っていたことと違う」というものである。
また、「勝ち組」と「負け組」の戦いは、階級的な対立、抗争の意味があったという見方がある。認識派の「負け組」は、みな社会的に高い地位についている人が多く、一方、襲った勝ち組の人々は、階層に低い地位にあった。
[編集] 参考
- 「ラテン・アメリカを知る事典」(平凡社)
- 朝川甚三郎不運の半生
- ブラジル通信 第11号
- 勝ち組、負け組
- 協同の発見誌2000年10月