コンテンツにスキップ

賀古鶴所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

賀古 鶴所(かこ つるど、1855年2月18日安政2年1月2日〉 - 1931年昭和6年〉1月1日)は、明治期から昭和初期の医師日本陸軍軍医で日本に耳鼻咽喉科学をもたらした。歌人として常磐会を開催する。遠江国の出身。恩賜財団済生会病院の発起人の一人[1]

経歴

[編集]

1855年2月18日((旧暦)安政2年1月2日)、遠江浜松藩藩医賀古公斎と母カネ子の間に5人兄弟の長男として生まれる[1]。幼名を銀弥といい、松雲と号した[1]明治維新後の転封(鶴舞藩)に伴い千葉県市原に転居[2]。1870年(明治3年)藩主井上正直の命により江戸に遊学し箕作秋坪の塾に学び、第一大学区医学校に入学。在籍中の1881年(明治14年)に25歳で結婚し[1]、翌7月、陸軍依託生として同じ陸軍軍医になる菊池常三郎森林太郎(鷗外)小池正直等と東京大学医学部を卒業すると[3][4]、直後に陸軍軍医に任官した[1]。賀古は森林太郎より7歳年長で入学は2年早かったが、何らかの理由で進級が遅れ同期卒業となり、寄宿舎では同部屋であったことから林太郎は賀古を友として終生信頼した。なお、鷗外を陸軍軍医に勧めたのは賀古とも言われている[注釈 1]。1922年の鷗外の死にあたって、遺言の口述筆記にたずさわる[6][7]。鷗外の遺志に反して、死後は森家の遺族に冷淡であったと鷗外の次女・小堀杏奴は賀古に対する不信をその著書に書き記している。

大学卒業後はしばらく東京大学医学部緒方正規に師事し細菌学を学び、陸軍軍医学校教官を拝命すると細菌学を教える。その後、内務卿山県有朋の知遇を得ると1888年(明治21年)山県渡欧の際同行し、翌年までドイツに留まりベルリン大学で耳鼻咽喉科学を修めた[2][4]。帰国後は、日本で最初の近代医学に基づく耳鼻咽喉科医師として、復職した軍医学校で教えると共に1890年(明治23年)2月12日から日本赤十字社病院(日赤病院)において耳鼻咽喉科外来診察を受け持った[4][8]。1896年(明治29年)には日本の精神科の開拓者で東京帝国大学医科大学(明治20年学制改制により東京大学医学部より変更)教授であった榊俶(さかき はじめ)が食道癌に罹った際、賀古が東京慈恵医院医学校教授金杉英五郎と共に日赤病院部長として手術を執刀した[9]。なお、この間1894年(明治27年)歩兵第三連隊付き軍医として日清戦争に従軍した[注釈 2]

優秀な医師が不足していた当時、軍医の個人医院開業は1899年(明治32年)に正式に開業禁止されるまで許されており、1892年(明治25年)賀古も東京市神田区小川町に「賀古耳科院「を開いた[2]。1896年(明治29年)、第5師団軍医部長を命じられたが東京を離れることを嫌い休職[1]、陸軍武官官等表改正により陸軍二等軍医正[1]に改定。45歳の1901年(明治34年)、依願退職によって予備役に編入し正五位を叙勲[1]、賀古耳科院の経営に専心した[2]。ただし、1904年(明治37年)日露戦争に際しては山県有朋の申し出により軍医に復し、従軍中に陸軍一等軍医正に昇格した[1]。第一師団司令部付の50歳で召集が解除され陸軍軍医監に昇進[1]、58歳で退役[1]

1931年(昭和6年)1月1日脳溢血により急逝、享年75歳。墓所は駒込吉祥寺、法名は翠厳院玄雲鶴所居士。軍医としての最終階級は軍医監(明治30年軍制改革前の階級で大佐相当)であった。

賀古は上総軽井沢と呼ばれる日在村(現千葉県いすみ市)に別荘「鶴荘」を持っていたが[注釈 3]、その隣に鷗外の別荘「鷗荘」があり[注釈 4]、同地には野間清治石井菊次郎与謝野晶子等の別荘もあったと伝えられる[2]

常磐会

[編集]

賀古は医学部の仲間や鷗外と歌の交換をしている[12]。井上通泰から白魚を贈られて賀古が返礼につづった歌を聞くと、鷗外が一首詠み、手紙でその歌を受けた妹の小金井喜美子が返歌を書いたものが伝わっている。

賀古
隅田川 桜のもとに 舟うけて かすみの中にくみし白魚か
鷗外
春川の 日影にはえて さらさらと あみをすべりし 白魚やこれ
小金井喜美子
ゆくりなく 汚れし耳を 洗ひけり かげもすみ田の花のした水

軍医長時代の賀古は中国へ出発する鷗外を歌で送った。

賀古
船出する 宇品の島も 霞みけり 遙かに君を 送るにやあらん
鷗外
さらばさらば 宇品島山 なれもまた 相見ん時は いかにかあるべき[13]

賀古と鷗外は1906年(明治39年)6月10日、佐々木信綱小出粲(こいで つばら)・大口周魚井上通泰を浜町の『常磐』と言う料亭に招き、新しい短歌会を興すことを諮った。当時短歌は旧派(桂園派の流れ)と新派(正岡子規根岸短歌会など)に分裂しており、常葉会は短歌会の調和を諮ることを目的として[注釈 5]1906年(明治39年)9月23日に第1回歌会が賀古邸で開かれる。月1回、第2土曜日に山県有朋の支援を受けて飯田町の賀古邸と山県の椿山荘あるいは古稀庵で原則隔月に催した[15]。入撰作を纏めた『常磐会詠草』[16][17]は第1編発刊の1909年(明治42年)から1917年(大正6年)12月まで全5巻刊行され[注釈 6]、集まりは山県が亡くなる(1922年(大正11)2月)まで185回続いている[1][15]

常磐会詠草掲載短歌

[編集]
賀古鶴所作
  • はしためを あなづりがほに 小鼠の かまどのかげに 見えがくれする
  • まがねふく けぶりに枯れぬ しらくもの 日ごとやどりし たにの老杉
  • 曲玉も ほればいづとふ をかのべに かみ代のすぎの かみさびてたつ
  • つなぎ綱 たたれて海に すすみいでし 舟のへさきに しらなみぞたつ
  • 冬枯の いてふの老木 さむげにも ぬけいでてみゆる うぶすなのもり

鷗外作品における賀古鶴所

[編集]

ヰタ・セクスアリス』(1909年(明治42年)発表、鷗外の自伝小説)に賀古は"古賀鵠介"と言う名前で登場[2][24]

ドイツ留学体験を下敷きにして執筆された短編小説 『舞姫』(1890年(明治23年)発表)に登場する相澤謙吉は賀古がモデルと言われている。また、同小説に登場する天方伯爵は山県有朋がモデルとされる[2][25]

栄典

[編集]
位階
勲章等

著書

[編集]
  • 吃の匡正法」『千葉醫學會雜誌』第6号、日本医史学会、1892年6月5日、4頁、NCID AN001934552018年3月30日閲覧 
  • 賀古鶴所[編]『耳科新書(前)』賀古鶴所、1893年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8364262018年3月30日閲覧 
  • 賀古鶴所[編]『耳科新書(後)』賀古鶴所、1894年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8364272018年3月30日閲覧 
  • 賀古鶴所[述]、中川恭次郎[編]『耳之衛生』博文館〈家庭衛生講話 第6編〉、1908年。 NCID BA75798079OCLC 673334974https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8364582018年3月30日閲覧 

共著

[編集]

翻訳

[編集]
  • フリードリヒ・ケルマン[著]、賀古鶴所[訳]、Kehrmann, Friedrich『歇爾曼氏生理学』刀圭書院、1882年。OCLC 673300824 
  • パイペル[著]、賀古鶴所[訳]『産婦備用』(2版)後凋閣、1887年。OCLC 673329910 [30]

家族

[編集]
父:賀古公斎
次弟:賀古篤男(夭逝)
三弟:賀古桃次(愛知県立医学専門学校教授)
妻:賀古啓子(医師・柳慎斎の四女[注釈 7][32]
養女:かつら(桃次の娘、鷗外晩年の主治医額田晉に嫁ぐ)
甥:明(桃次の息子)

参考資料

[編集]


脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 谷光太郎によると、大学教授を希望した鷗外は石黒忠悳(陸軍軍医本部次長)宛の推薦状を小池正直に書いてもらい、半年遅れて12月に陸軍軍医に着任した[5]
  2. ^ 1894年(明治27年)に第一師団第2野戦病院長として出征。翌年3月に終戦、復員後の5月、39歳で陸軍一等軍医正、臨時陸軍検疫部事務官に就任[1]
  3. ^ 「鶴荘」の扁額[1]は、いすみ市有形文化財[10]
  4. ^ 夷隅郡大原町日在の別荘・鷗荘は小説『妄想』の舞台[11]
  5. ^ 第1編附録に「常磐会の沿革並に会則」がある[14]
  6. ^ 「常磐會詠草」は第1編[18]、第2編[19]、第3編[20]、第4編[21]、第5編[22]。現在は東京大学附属総合図書館[2][18]および日本近代文学館[18]、長崎県立長崎図書館[23]に全巻が揃っている。
  7. ^ 2016年の「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」展で肖像写真が展示された[31]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 平成28(2016)年度コレクション展「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」” (2016年). 2018年3月28日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 島内景二歌人としての賀古鶴所──「鷗外の親友」の文学的素養──」『電気通信大学紀要』第16巻第1号、電気通信大学、2003年7月、55-82頁、ISSN 0915-0935NAID 120006315543 
  3. ^ “医学士 明治十四年卒業”. 東京帝国大学一覧. 明治20-21年. 東京帝国大学. (1888). p. 246. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813164/39?tocOpened=1 2018年3月30日閲覧。. 
  4. ^ a b c 下中邦彦[編]「賀古鶴所」『日本人名大事典』 2巻、新撰大人名辞典復刻版、平凡社、1979年、34頁。ISBN 9784582122008OCLC 914824677 
  5. ^ 谷光太郎「鷗外・森林太郎のキャリアへの一考察」『現代経営情報学部研究紀要』第3巻第1号、大阪成蹊大学、2006年3月25日、27-60頁、ISSN 1348-9208NAID 110004792863NCID AA119107382020年7月6日閲覧 
  6. ^ 賀古鶴所『森鷗外遺言書 賀古鶴所筆[複写]』島根県立図書館[収蔵]。  - 「遺言書」2枚を収めた原寸大写真1枚。
  7. ^ 渡辺善雄「鷗外の遺言と栄典制度―新資料・加藤拓川宛賀古鶴所書簡の意味するもの」『鷗外』第63号、森鷗外記念会、1998年7月、1-13頁、ISSN 0287-7880NAID 400002748892020年7月6日閲覧 
  8. ^ 木村繁 1990, p. 1623.
  9. ^ “東大病院創立150 周年に向けて 3.精神科”. 東大病院だより. pp. 50-51. http://www.h.u-tokyo.ac.jp/vcms_lf/dayori50.pdf 2013年1月21日閲覧。. 
  10. ^ 市指定文化財”. いすみ市. 2018年3月30日閲覧。
  11. ^ 大島田人、八角真「森鷗外 : 人と文学のふるさと(4)」『明治大学教養論集』第128巻、明治大学、1979年3月1日、127-221頁、ISSN 0389-6005NCID BA7489922X 
  12. ^ 「鷗外漁 史陣中の歌」『風俗画報』第292号、1905年。 
  13. ^ 吉田悦志「『風俗画報』を散策する」『明治大学図書館紀要』第3巻、明治大学図書館紀要編集委員会、1999年1月、124-129頁、ISSN 1342-808XNAID 120001439601 
  14. ^ 井上通泰[編]『常磐會詠草』 1巻、歌学書院〈植木家資料 ; 2023-1〉、1909年、68頁。 
  15. ^ a b 常磐会―日本大百科全書(ニッポニカ)の解説”. 朝日新聞. 2018年3月30日閲覧。
  16. ^ 森林太郎「常磐会詠草」『鷗外全集 第6巻』鷗外全集刊行会、1926年。 
  17. ^ 森鷗外、森於菟[編]、小堀杏奴[編]「常磐会詠草」『鷗外小説全集』別巻 (3)、宝文館、1957年。 
  18. ^ a b c 常磐會詠草”. 2018年3月30日閲覧。
  19. ^ 井上通泰[編]『常磐會詠草』 2巻、聚精堂〈植木家資料 ; 2023-2〉、1910年。 
  20. ^ 井上通泰[編]『常磐會詠草』 3巻、聚精堂〈植木家資料 ; 2023-3〉、1912年。 
  21. ^ 井上通泰[編]『常磐會詠草』 4巻、聚精堂〈植木家資料 ; 2023-4〉、1917年。 
  22. ^ 井上通泰[編]『常磐會詠草』 5巻、聚精堂〈植木家資料 ; 2023-5〉、1917年。 
  23. ^ 常磐會詠草”. 2018年3月30日閲覧。
  24. ^ 益田「『ヰタ・セクスアリス』の周縁」『日本文学』第18巻第1号、1969年、22頁、doi:10.20620/nihonbungaku.18.1_22 
  25. ^ ちくまの教科書”. 筑摩書房. 2013年1月21日閲覧。
  26. ^ 『官報』第3818号「叙任及辞令」1896年3月25日。
  27. ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
  28. ^ 『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。
  29. ^ 刊行順に巻4上・下冊(1896年10月)、巻1上冊(1897年3月)、巻1下冊(同年4月)、巻2上・下冊(同年6月)、巻3上・下冊(同年8月)。検索結果一覧 : 実用外科各論”. 2018年3月30日閲覧。
  30. ^ 原著者名はバイペルか。明治20年10月18日付の東京日日新聞にある増補版の出版広告本文より「独乙国医博士バイペル氏著、日本医学士賀古鶴所訳補 産婦備用 完 洋装図入美本 定価金四十銭 郵税金十銭 此書ハ千八百八十四年ノ増補ニシテ……」“産婦備用”. 東京日日新聞. (1887年10月18日). http://dbrec.nijl.ac.jp/PADB_IA0031046 
  31. ^ 文京区立森鷗外記念館 2016, p. 2.
  32. ^ 松原純一「賀古鶴所略年譜」『鷗外』第2号、森鷗外記念会、1966年3月。