コンテンツにスキップ

高校百校新設計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高校百校新設計画(こうこうひゃっこうしんせつけいかく)は、1970年代から80年代にかけての神奈川県で計画・実施された県立高等学校の増設事業。一般に百校計画と称される。

経緯

[編集]

1970年代当時の神奈川県では、元より中学校卒業者に対する公立高等学校、特に普通科公立校の数が極端に少なく、同年代からの公立中学校卒業者の急増と高校進学率の上昇に対処できなかった。

そこで「15の春を泣かせるな」をスローガンに高校百校新設計画が策定され、高校への進学機会の確保を図ることになった。

新設された高校

[編集]

★印は、校地が新校に継承された学校

結果

[編集]

上記の通り、100校のうち藤沢工業以外の99校は全て普通科高校として新設された。

これは、そもそもこの高校増設運動が、 普通科の増設を要求して始まったものであること、社会の高学歴化に伴い、高校卒業後の就職には有利な一方で大学進学時に将来の進路が限られてしまう職業高校より、大学進学の可能性が高い普通科の設置要望が、中学生の父兄はじめ県民から多かったためである。

しかし、ほぼすべての新設校が普通科高校になったことにより、専門学科との数の上でのバランスを著しく欠くことになり、1972年に35%強を占めていた職業高校の割合は、1988年には15%強にまで減少した。

このため、普通科高校の授業についていくだけの意欲、学力が伴っていない者までが普通科に入学することになり、当初考えられていた大学進学の可能性が高い普通科とはかけ離れ、多くの教育困難校が生まれることになった。また、新設校の多くは、将来的な養護施設などへの転用を見据えて簡素な設備しか持たず、「学校としての魅力」に欠けていると見る向きもあった。

さらに、1980年代になると、ア・テスト内申点による、いわゆる「輪切り」進路指導の徹底や、学区の縮小(1981年。後の2005年に学区撤廃)などにより、学校選択の自由がより制限されるようになったことや、百校計画によって突出した公立の進学校が存在しなくなったことも相まって、公立高校の地盤沈下が目立った。相対的に、一部私立高校が躍進することになった。

21世紀になり、神奈川県において県立高校の統廃合が進められているが、対象校の多くは百校計画によって新設されたものである。

かつての教育困難校の中には、入学試験や内申での入試をやめ、不登校や中学校での学力不振生徒を受け入れて、少人数制で基礎学力をつけるクリエイティブスクールや、全日制に定時制と通信制を組合わせ、生徒の生活スタイルにあわせた時間帯で学習ができる、単位制フレキシブルスクールなど、新たな形での教育を実践している学校もある。

参考文献

[編集]
  • 『公立or私立神奈川の教育を考える』(読売新聞社横浜支局)
  • 『伸びゆけ若者たち 高校百校計画達成の軌跡』(神奈川県教育庁)
  • 『ねざす』No.47 May 2011「検証 高校改革推進計画・・・その1」(財団法人・神奈川県高等学校教育会館 教育研究所)

関連項目

[編集]