関藍梁
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関 藍梁(せき らんりょう、文化2年4月7日(1805年5月5日) - 文久3年8月16日(1863年9月28日))は、幕末の儒者・書家・漢詩人。名は研、字は克精。通称は研次。藍梁は号。別号は湖西[1]。
生涯
[編集]近江国高島郡青柳村大字青柳字万木(現滋賀県高島市安曇川町青柳)出身[1]。
13歳のとき江戸に下り昌平黌に入る。また市河米庵にも師事した[2]。大槻磐渓と親交した[3]。膳所藩の江戸藩邸詰めを長く務めた[3]。
黒船来航時、江戸幕府の儒者・林大学頭(林復斎)に随行し応接にあたる[4]。その際、マシュー・ペリー側の漢文通訳羅森と詩を唱和した[5]。また、ペリーに膳所産の茶を饗して気に入られた[5]。のちにこの出来事を膳所の人々に語り茶園を開くことを薦め、膳所茶を誕生させた[5]。
作品
[編集]- 駢題詩裒 - 著作のうち唯一刊行されたもの[6]。
- 甲申帰省餘記
ほか[6]。
書に関しては、書幅は伝わらないが書丹が伝わる[2]。
墓所
[編集]関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 村山 2021, p. 35.
- ^ a b 村山 2021, p. 44.
- ^ a b 村山 2021, p. 38.
- ^ 嶋村 2014, p. 5.
- ^ a b c 村山 2021, p. 39.
- ^ a b 村山 2021, p. 46.
参考文献
[編集]- 嶋村元宏「ペリー来航に関わる情報収集活動とその伝播について : 画像資料を中心に」『神奈川県立博物館研究報告. 人文科学』第41号、神奈川県立歴史博物館、2014年 。
- 村山吉廣「関藍梁の生涯・書業・詩業」『斯文』第136号、斯文会、35-52頁、2021年。