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襄公(じょうこう、? - 紀元前621年8月15日)は、中国春秋時代の晋の君主(在位:紀元前628年 - 紀元前621年)。姓は姫、諱は驩(歓とも呼ばれる)。春秋五覇の一人に挙げられる第22代文公の子。
即位後間もない紀元前627年、正卿先軫の献策で殽の戦い(zh)が起こった。孟明視(zh)[1]率いる穆公の秦軍が攻め込んできたが、という敵方三将を捕虜として捉えたが、「恨み骨髄に徹す」という母(穆公の娘)の諫言に従って逃がしたところ、先軫は大いに怒った。
この戦いが秦晋の戦争の始まりであったと同時に、後の三晋が勃興する遠因ともなった。在位7年で亡くなると子の太子夷皋が後を継いだ。これが霊公である。襄公にはその他に桓叔捷(悼公の祖父)という公子もいた。
紀元前626年、彭衙の戦い。
紀元前624年、王官の戦い。
紀元前623年、新城の戦い。
紀元前622年、晋大夫趙衰、狐偃、欒枝(zh)らが死んだ。
紀元前621年、即位後7年で没した。趙盾が狐射姑との権力闘争に勝利し、正卿(摂政)となった。
果敢な襄公は白い喪服を墨で黒く染めて出陣し、殽の地でこれを打ち破った。喪服を染めた理由はわからないが、父の喪中で喪服を脱ぐわけには行かず、白い喪服のまま出陣するのは不吉であると思って黒く染めたものと思われる[2]。孟明視、西乞術(zh)[3]、白乙丙(zh)[4]
- ^ 姓は百里、名は視、字は孟明。百里奚の子。
- ^ 喪服に黒服を着る習慣はここから発生したという話があるが、俗説であり信憑性はないと伝わる。その後も長きにわたって、中国や日本では喪服は白であり、それが黒になるのは近代以降である。
- ^ 名は術、字は西乞。
- ^ 姓は蹇、名は丙、字は白乙。蹇叔の子。
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成師(桓叔)の曲沃就封で、晋は翼の宗家と曲沃の分家に分裂
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翼宗家 |
- 昭侯前745-前739
- 孝侯前739-前724
- 鄂侯前723-前718
- 哀侯前717-前710
- 小子侯前709-前706
- 晋侯緡前706-前679断絶
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曲沃分家 |
- 桓叔前745-前731
- 荘伯前731-前716
- 武公前716-前678
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- 武公前678-前677
- 献公前676-前651
- 奚斉前651
- 卓子前651
- 恵公前650-前637
- 懐公前637-前636
- 文公前636-前628
- 襄公前627-前621
- 霊公前620-前607
- 成公前606-前600
- 景公前599-前581
- 厲公前580-前573
- 悼公前572-前558
- 平公前557-前532
- 昭公前531-前526
- 頃公前525-前512
- 定公前511-前475
- 出公前474-前457
- 哀公前456-前438
- 幽公前437-前420
- 烈公前419-前393
- 孝公前392-前378
- 静公前377-前376
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