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定公 (晋)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
定公 姫午
公(周制における爵位は侯)
国名
在位期間 紀元前512年 - 紀元前475年
都城 新絳
姓・諱 姫午
諡号 定公
没年 紀元前475年
頃公

定公[1](ていこう、生年不詳 - 紀元前475年)は、中国春秋時代の君主。姓は姫、名は午。

生涯

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晋の頃公の子として生まれた[2]紀元前512年6月、頃公が死去する[3]と、後を嗣いで定公が晋公として即位した[2]紀元前510年敬王が富辛と石張を晋に派遣して、成周の城壁修築を依頼した。定公はこれを受け入れ、士弥牟(士景伯)の案をもとに諸侯を動員して工事がおこなわれ、韓不信が監督した[4]紀元前509年、晋の魏舒が諸侯の大夫を狄泉に召集して、成周の城壁を修築させた。士弥牟がの仲幾を捕らえて京師に送った[5]紀元前507年、晋軍は平中で鮮虞に敗れ、晋将の観虎が捕らえられた[6]紀元前506年、晋・・宋・などの諸国が召陵に会盟し、に対する進攻を決議した。晋の士鞅(范献子)と衛の孔圉(孔文子)が軍を率いて鮮虞を攻撃した[7]紀元前503年、周の儋翩が儀栗に入って反乱を起こした。定公は都から逃れた周の敬王を支援して晋軍を派遣し、敬王を王城に護送した[8]紀元前502年、晋の渉佗・成何らが衛の霊公と鄟沢で会盟しようとしたが、霊公の怒りを買い、破談となった。士鞅が鄭に侵入し、蟲牢を包囲した。晋と魯の連合軍が衛を攻撃した[9]紀元前501年、魯の陽虎が晋に亡命してきた。斉と衛の連合軍が晋の夷儀を攻撃したが、晋軍が中牟を出立して、斉軍を撃破した[10]紀元前500年趙鞅が衛を包囲した[11]紀元前497年、晋の范氏中行氏が趙氏の宮を攻撃し、趙鞅は晋陽に逃れた。智躒(智文子)・韓不信・魏侈が定公を奉じて范氏と中行氏を攻めた。范氏と中行氏は定公を攻撃して国人の反感を買い、敗北して朝歌に逃れた。趙鞅は絳に帰還した[12]紀元前496年、晋軍が范氏と中行氏の拠る朝歌を包囲した。晋軍が范氏と中行氏の軍を潞で破り、籍秦と高彊を捕らえた。また晋軍は鄭軍と范氏の軍を百泉で破った[13]紀元前494年、斉と衛が晋の范氏を救援するために邯鄲に出兵し、五鹿を包囲し、棘蒲を奪った[14]紀元前493年、晋の趙鞅が衛の太子蒯聵を送って戚に入城させた。鄭軍が范氏を支援したため、趙鞅が鄭軍と鉄で戦って撃破した[15]紀元前492年、趙鞅が范氏と中行氏の拠る朝歌を包囲した[16]紀元前491年、趙鞅が邯鄲を包囲し、邯鄲は降伏した。荀寅(中行文子)は鮮虞に逃れ、趙稷は臨に逃れた[17]紀元前490年、晋軍が柏人を包囲し、士吉射(范昭子)は斉に逃れた。趙鞅が衛を攻撃した[18]紀元前489年、晋軍が鮮虞を攻撃した[19]紀元前488年、晋の魏侈が衛に侵攻した[20]紀元前485年、趙鞅が斉を攻撃し、犁と轅を占領し、高唐の城郭を破壊した。趙鞅は頼まで進軍して撤退した[21]紀元前482年、定公は夫差と黄池で会盟し、血を啜る順序を争った[22]紀元前481年、趙鞅が衛を攻撃した[23]紀元前480年、趙鞅が衛に進攻した。定公は鄭を攻撃した[24]紀元前478年、趙鞅が衛を包囲した[25]紀元前475年、定公は死去し、子の出公が晋公として即位した[2]

脚注

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  1. 史記』晋世家、『春秋左氏伝』哀公13年ほか伝世文献はいずれも定公とする。『清華簡』「繋年」18章は簡公としている。
  2. 1 2 3 『史記』晋世家
  3. 春秋』昭公30年
  4. 『春秋左氏伝』昭公32年
  5. 『春秋左氏伝』定公元年
  6. 『春秋左氏伝』定公3年
  7. 『春秋左氏伝』定公4年
  8. 『春秋左氏伝』定公7年
  9. 『春秋左氏伝』定公8年
  10. 『春秋左氏伝』定公9年
  11. 『春秋左氏伝』定公10年
  12. 『春秋左氏伝』定公13年
  13. 『春秋左氏伝』定公14年
  14. 『春秋左氏伝』哀公元年
  15. 『春秋左氏伝』哀公2年
  16. 『春秋左氏伝』哀公3年
  17. 『春秋左氏伝』哀公4年
  18. 『春秋左氏伝』哀公5年
  19. 『春秋左氏伝』哀公6年
  20. 『春秋左氏伝』哀公7年
  21. 『春秋左氏伝』哀公10年
  22. 『春秋左氏伝』哀公13年
  23. 『春秋』哀公14年
  24. 『春秋』哀公15年
  25. 『春秋左氏伝』哀公17年
先代
頃公
君主
前512年 - 前475年
次代
出公