蕭秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

蕭 秀(しょう しゅう、元徽3年(475年)- 天監17年2月7日[1]518年3月4日))は、南朝梁皇族。安成康王。は彦達。武帝蕭衍の弟にあたる。

経歴[編集]

蕭順之の七男として生まれた。12歳[2]のときに生母の呉氏が亡くなると、蕭秀と同母弟の蕭憺は喪に服して何日も水分を取らなかったので、父の蕭順之が自ら粥を取って与えた。蕭順之はふたりの兄弟を哀れんで、子のなかった側室の陳氏にふたりの世話をさせると、陳氏は自ら生んだ子のようにふたりを育てた。蕭秀は成長すると、に仕えて著作佐郎となり、後軍法曹行参軍・太子舎人を歴任した。

永元年間、長兄の蕭懿崔慧景を討って尚書令となり、四兄の蕭暢衛尉となって、兄たちは高位に上った。斉の東昏侯は遊興に明け暮れ、人事に節度がなかった。人々は挙兵して廃立をおこなうよう蕭懿に勧めたが、蕭懿は聞き入れなかった。東昏侯の側近たちは蕭懿の勲功の高さを憎み、廃立をたくらんでいるものとみなして、蕭懿を讒言して陥れた。蕭秀の兄弟たちはみな備えをしていたため、蕭懿が処断されると、六兄の蕭宏以下の諸弟や甥たちはおのおの逃亡できた。その逃亡先も建康を出るものではなかったが、ほとんど発覚せず、五兄の蕭融だけが禍にかかった。

三兄の蕭衍の東征軍が新林に入ると、蕭秀は兄弟たちとともに建康を脱出して蕭衍のもとに駆けつけた。蕭秀は蕭衍により輔国将軍の号を与えられた。東昏侯の弟の晋熙王蕭宝嵩南徐州刺史として京口に駐屯しており、蕭衍に降伏を申し出ると、蕭秀は蕭衍の命を受けて京口に進駐し、冠軍長史・南東海郡太守となった。建康が平定されると、輔国将軍のまま使持節・都督南徐兗二州諸軍事・南徐州刺史となった。京口は崔慧景の乱以来、戦乱が続いて民衆が離散し荒廃していたが、蕭秀は人々を呼び集め、私財を割いて飢民に施したため、救われた者が多かった。

天監元年(502年)、征虜将軍に進み、安成郡王に封じられた。天監2年(503年)、征虜将軍のまま領石頭戍事をつとめ、散騎常侍の位を加えられた。天監3年(504年)、右将軍に進んだ。天監5年(506年)、領軍・中書令の任を加えられた。

天監6年(507年)、使持節・都督江州諸軍事・平南将軍・江州刺史として出向した。天監7年(508年)、義母の陳太妃が亡くなって喪に服したが、武帝の命によりそのまま江州の事務を続けた。5月、都督荊湘雍益寧南北梁南北秦州九州諸軍事・平西将軍・荊州刺史に転じた。7月、安西将軍の号を受けた。荊州に学校を立て、隠逸を招いた。

北魏の懸瓠の城民の白早生が反乱を起こし、豫州刺史の司馬悦を殺し、梁の司州刺史の馬仙琕を引き入れると、馬仙琕は荊州に応援を求めた。荊州の諸官は朝廷の命令を待つよう勧めたが、蕭秀は応急の処置が必要だとして、すぐさま兵を派遣した。ときに巴陵郡の馬営蛮が長江沿岸で活動しており、後軍司馬の高江産が郢州の軍を率いてこれを攻撃したが敗れた。高江産が敗死すると、馬営蛮は勢力を拡大した。蕭秀は防閤の文熾に兵を与えてこれを攻撃させた。文熾は林木を焼いて、馬営蛮の用いていた小さな通路を遮断し、馬営蛮に地の利を失わせると、1年ほどで州境の反乱勢力は根絶され、長江の交通は回復した。荊州で水害が発生して、民間の農地に被害が及ぶと、蕭秀は穀物2万斛を供出して振る舞った。

天監11年(512年)12月、建康に召還されて侍中・中衛将軍となり、宗正卿・石頭戍事を兼ねた。天監13年(514年)1月、使持節・散騎常侍・都督郢司霍三州諸軍事・安西将軍・郢州刺史として出向した。当時の郢州は貧しく、婦人を労役に供するほど疲弊していたが、蕭秀が赴任すると、官の冗費を節減して、民衆の負担を軽くした。ときに司州で少数民族の田魯生が反抗していたが、その弟の田魯賢や田超秀とともに蒙籠で梁に降った。武帝は田魯生を北司州刺史とし、田魯賢を北豫州刺史とし、田超秀を定州刺史として、北方国境の防備を任せた。しかし田魯賢と田超秀は仲が悪く、互いに誹謗しあっていた。蕭秀がかれらを宥めて、任用に耐えるよう調停した。

天監16年(517年)7月、使持節・都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵司州之隨郡諸軍事・鎮北将軍・寧蛮校尉・雍州刺史に転じた。

天監17年2月癸巳(518年3月4日)、赴任途中に竟陵郡の石梵で死去した。享年は44。侍中・司空の位を追贈された。は康といった。

子女[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『梁書』巻2, 武帝紀中 天監十七年二月癸巳条による。
  2. ^ 『梁書』による。『南史』では13歳。

伝記資料[編集]