蕭推

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蕭 推(しょう すい、生年不詳 - 太清2年11月4日[1]548年12月19日))は、南朝梁皇族は智進。

経歴[編集]

安成康王蕭秀の子として生まれた。若くして文章を好み、簡文帝の賞賛を受けた。普通6年(525年)、南浦侯に封じられた。寧遠将軍・淮南郡太守として出向した。軽車将軍・晋陵郡太守に転じ、給事中・太子洗馬・秘書丞を歴任した。戎昭将軍・呉郡太守として出向した。かれの赴任するところには必ず日照りの災害が起こったので、呉郡の人はかれのことを「旱母」と渾名した。太清2年(548年)、侯景の乱が起こると、蕭推は東府城を守備し、反乱軍の攻撃に抗戦した。11月辛酉、東府城が陥落し、蕭推は反乱軍に殺害された。

脚注[編集]

  1. ^ 『梁書』巻3, 武帝紀下 太清二年十一月辛酉条による。

伝記資料[編集]