蕭順之

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蕭順之(しょう じゅんし、生没年不詳)は、南朝斉宗室軍人の武帝蕭衍の父にあたる。は文緯[1]

経歴[編集]

蕭道賜の次男として生まれた[2]蕭道成の族弟[3][1]で、若い頃から蕭道成と親しかった。蕭道成の征戦のたびに軍の統率を補佐し、夜間の寝所を警護した[1]473年元徽元年)、王勅懃らとともに3万の兵を率いて、北魏の淮北諸城を攻撃したが、北魏の尉元に敗れた[4]474年(元徽2年)、蕭道成が鎮軍将軍・南兗州刺史となると、順之は鎮軍府長史をつとめた[5]。後に黄門郎・安西長史・呉郡内史を歴任した[1]

477年(昇明元年)、袁粲沈攸之の乱に呼応して石頭城に拠り、黄回が反乱側について石頭城に向かうと、順之は家兵を率いて朱雀橋を守り、これをはばんだ[1]。さらに輔国将軍・驍騎将軍として水軍を率いて沈攸之の乱鎮圧にあたった[6]

の建国に功績を挙げ、豫章王蕭嶷に代わって揚州刺史に任じられた[1]482年建元4年)、武帝が即位すると、臨湘県侯に封じられた[1]侍中衛尉を歴任した[3][1]。7月、豫州刺史となった[7]。後に太子詹事に転じた[3][1]485年永明3年)、領軍将軍の号を受けた[7]。後に丹陽尹となった[3][1]490年(永明8年)、荊州刺史の巴東王蕭子響が反乱を起こすと、順之は反乱の鎮圧に赴き、蕭子響を降伏させた[7][8][9][10][11]

後に死去すると、鎮北将軍の位を追贈され[3][1]を懿といった[1]502年天監元年)、梁が建国されると、文皇帝と追尊され、廟号を太祖といった[12][1]

妻子[編集]

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男子[編集]

女子[編集]

  • 義興昭長公主蕭令嫕
  • 新安穆公主
  • 余姚公主

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 南史』巻6
  2. ^ 梁書』巻24
  3. ^ a b c d e 『梁書』巻1
  4. ^ 魏書』巻50
  5. ^ 南斉書』巻22
  6. ^ 『南斉書』巻24
  7. ^ a b c 『南斉書』巻3
  8. ^ 『南斉書』巻40
  9. ^ 『南史』巻4
  10. ^ 『南史』巻44
  11. ^ 『魏書』巻98
  12. ^ 『梁書』巻2