茅野秀三
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基本情報 | |
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出身地 | 日本 神奈川県[1] |
生年月日 | 1918年11月7日[1] |
身長 体重 |
170 cm 62 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左[1]投左[1]打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1948年 |
初出場 | 1948年4月4日[2] |
最終出場 | 1948年11月2日[2] |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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茅野 秀三(かやの しゅうぞう、1918年11月7日[1] - 没年不明)は、神奈川県出身の元プロ野球選手(外野手)。
来歴・人物
[編集]神奈川県で生まれ育ったが、父親の仕事の関係で台湾に移住。台北州立台北工業学校(現:国立台北科技大学)時代は、1932年夏の甲子園に出場。チームメイトに漆原進、茅野健一がいる。横浜高工、横浜金港クラブを経て、1947年に国民野球連盟の宇高レッドソックス(のちに熊谷レッドソックスに改名)に入団。夏季リーグ30試合制で打率.403の高打率をマークし、首位打者のタイトルを獲得した。
翌1948年に中日ドラゴンズに入団。4月4日の大陽ロビンスとの開幕戦(鳴海球場)に2番・中堅手で先発出場を果たした[2]。シュアな打撃と俊足を活かして外野手のレギュラーとして活躍したが、盗塁刺が18個(リーグワースト)と盗塁技術に難があった。盗塁は9個なので盗塁成功率は.333と低かった。シーズン後半は打順が下がったり、試合出場できなかったりすることも多く(中日入団時に、当時としては高齢の29歳だったことも影響している)、1948年シーズン終了後、現役引退した。その後の消息は不明。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1948 | 中日 | 129 | 450 | 427 | 29 | 106 | 21 | 6 | 0 | 139 | 25 | 9 | 18 | 7 | -- | 15 | -- | 1 | 29 | -- | .248 | .275 | .326 | .601 |
通算:1年 | 129 | 450 | 427 | 29 | 106 | 21 | 6 | 0 | 139 | 25 | 9 | 18 | 7 | -- | 15 | -- | 1 | 29 | -- | .248 | .275 | .326 | .601 |
- 各年度の太字はリーグ最高。
背番号
[編集]- 11 (1947年)
- 19 (1948年)[3]
脚注
[編集]関連項目
[編集]- 神奈川県出身の人物一覧
- 横浜国立大学の人物一覧
- 中日ドラゴンズの選手一覧
- 兄弟スポーツ選手一覧
- 4割打者(宇高レッドソックス〔国民野球連盟〕時代の1947年夏季リーグで達成している。)
外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 茅野秀三 - NPB.jp 日本野球機構