色川三郎兵衛
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色川 三郎兵衛 いろかわ さぶろべえ | |
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生年月日 | 1842年12月3日 |
出生地 | 日本 上総国武射郡(現千葉県) |
没年月日 | 1905年2月21日(62歳没) |
前職 | 醤油醸造家 |
所属政党 | (立憲改進党→) |
親族 | 義子・伊澤多喜男 |
選挙区 | 茨城県第5区(現茨城県第6区) |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1890年7月1日 - 1893年12月30日 |
色川 三郎兵衛(いろかわ さぶろべえ、天保13年11月2日(1842年12月3日) - 明治38年(1905年)2月21日)は、日本の醤油醸造家、政治家。衆議院議員(2期)。旧名・海保幸八郎[1]。諱は英俊[2]。「三郎兵衛」は土浦色川家当主が代々名乗った名で、色川三郎兵衛(英明)は色川三中を参照。
略歴
[編集]上総国武射郡生まれ[3]。 慶応3年(1867年)、土浦の醤油醸造家、色川三中の養嗣子(養孫)となり、岳父の三郎兵衛(貞興)から家督を受け継ぎ、三郎兵衛を襲名。明治16年(1883年)にはオランダの万国博覧会(アムステルダム国際植民地輸出博覧会)に出品し金牌を得た[4]。政界にも進出し、県会議員を経て、明治23年(1890年)、立憲改進党から立候補し当選。衆議院議員を2期務めた。在任中、鉄道会社に働きかけて日本鉄道海岸線(現 常磐線)の敷設計画を変更させ、当時水害に悩まされていた土浦市の霞ヶ浦側に、線路の盛土を湖岸堤の代わりとして作らせたほか、逆流防止のため川口川閘門、田町川閘門の建設に出資するなど、土浦の水害対策に尽力した。なお、川口川閘門、田町川閘門は彼の死後、明治39年(1906年)に完成した。
家族
[編集]- 父は上総国堺村屋形(現・千葉県山武郡横芝光町)の割元格名主の海保長左衛門。[1][6]
- 兄(長左衛門の三男)は伊能節軒の娘の婿となり、伊能三郎左衛門家(伊能忠敬の直系)の夫婦養子となり、伊能景文と名乗った[7]。
- 妻のやいは、先代色川三郎兵衛(貞興)の長女。先代は下総国川原代村出身で旧名を木村政吉といい、従兄の色川三中の養子に入り、三中の娘の嫁ぎ先・柴田家の娘を妻とし、代々当主が名乗っていた三郎兵衛を三中没後に襲名した。[1]
- 次男の色川俊次郎(1883年生)は慶応大学理財科を出て三菱銀行に入り、のち三井信託銀行副社長。[1][8]
- 三男の色川三男(1886年生)は、科学技術者。東京帝国大学農科大学農芸化学科を卒業後、鹿児島高等農林学校講師を経て、朝鮮総督府中央試験所技師、農商務省技師、内務省社会局技師となり、国際労働総会政府代表などを務めた[9][10]。
- 長女・よしは湯本武比古の妻[1]。
- 三女・とくは伊沢多喜男の妻[1]。その次男に飯沢匡[11]。
- 色川武大や色川大吉も親類にあたる[12]。武大は色川三中の弟・色川御蔭(1815-1873)の曾孫[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 『贈従五位色川三中翁略伝』湯本武比古、1920、p15-16
- ^ 土浦発未来への伝承(169)色川三中『片葉日記』黒船情報を集めた土浦の町人広報つちうら、土浦市、2021.6.1
- ^ 色川三郎兵衛君『常陽人物寸観』高橋刀川、明37.7
- ^ 『色川三中の研究 伝記編』中井信彦、塙書房 1988年、p459
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.46
- ^ 徳川封建社会の研究 野村兼太郎 日光書院 昭和16年、p281-282
- ^ 文化の開拓者 伊能忠敬翁1伊能忠敬研究44号、2006年
- ^ 『茨城県史』茨城県史刊行会、1933年、p185
- ^ 色川三男『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
- ^ 『茨城県史』茨城県史刊行会、1933年、p41
- ^ 飯沢匡『権力と笑のはざ間で』57頁
- ^ 『色川大吉著作集』第4巻217頁
参考文献
[編集]- 「土浦市史」土浦市史編さん委員会(土浦市史刊行会、1975年)