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禁厭秘辞

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禁厭秘辞』(きんえんひじ)とは、宮地堅磐(宮地水位)による著作物。

概要

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 潮江天満宮神官であった宮地水位が、明治27年6月1日から15日にかけて記したものである。出雲文字で筆記された古い巻物の伝法で外患病を取り除く禁厭の唱え文を註釈している。水位はこの時期にその他に『五臓文集』、『神道洗霊式』、『永言集』、『続々和漢名数』等も書き残している。

水位は『禁厭秘辞』の執筆から18年溯る明治9年に土佐大城戸在住の川村家を訪れ、その折に信仰の深い老婆から相談を受けた。水位も知己の川村茂之助という壮年の息子が難病に罹り八方手を尽くしたが、医者から匙を投げられ、藁をも掴む思いで神官である水位に祈祷を頼んだのだった。その相談の折に、老母は息子が精神分裂病(統合失調症)になったのは川村家に代々伝わる門外不出の家宝の巻物が禍してるのではないかと水位に尋ね、この曰く付きの一巻の古い巻物(長三尺幅二尺)を水位に差し出した。早速拝観して手にとり開き見ると、その古風な箱に入れられた軸装の巻物は黄土で塗られており全文が神代文字で書かれていた。同じ原図の巻物から書き写されたであろうと思われる写本の故紙や筆墨なども拝見すると、少なくとも数百年前に原本から模写されたもので、老母の話しぶりからも、水位は直感的に大穴持神伝来の奇しき禁厭の施行法について記載されているものに間違いないと判断した。水位は写本を借覧して持ち帰り、早速書架に積まれた夥しい古書の中から関連する文献類や平田篤胤神字日文伝附録などを抜き取って紐解き見比べ神代文字で書かれた巻物の文字及び内容を比較類推して解読するやいなや、書き記されている通りに病者に施すと不治の難病が徐々に全快して完治したという。この時期の水位は神官奉仕の余暇に『玉泉九転論』や『神仙順次伝』、『還丹保身編』、『導引法房中談』、『神仙霊感使魂法訣』などの著作をものしており、該博な知識を縦横に駆使して玄学に関する書物なども書き残していた。

この時期に水位が模写した巻物の写本は、後に大洲出身の平田学派の門弟・矢野玄道の求めに応じて明治18年3月に矢野に譲られている。玄道は篤胤の後継者とも目された俊秀な門人の一人であり、若き頃より玄学に造詣深く雲笈七籤をひも解き道家の学を体得して実践していた。縁あって潮江天満宮神官・常磐・堅磐父子の存在を知り以後その機縁により水位との交流を深め、時折書籍(水位の著作・訂正大學)なども借覧して水位の謦咳に接していた。

水位は神秘秘言や、古来から伝わる様々な民間伝承のまじないについても造詣が深い。

『禁厭秘辞』は、禁厭の原理や起源から解き起こし、出雲古代文字で認められた巻物の由来や経緯を水位が詳細にまとめて解釈をほどこし、緻密な考証と論考がちりばめられた玄学の書である。論稿の中で水位は、出雲古代文字の解明に、平田篤胤の集記した『神字日文伝附録』が大いに参考になったと記している。この『日文伝附録』は、当時日本に伝わる神代文字を精力的に蒐集していた篤胤が、『仙境異聞』に登場する異界に通じた仙童寅吉少年が常陸国岩間山幽界に入山の折に、自著『霊能真柱』の進呈とこの『神代文字疑字篇』の誤りの訂正および書簡などを寅吉に託して、寅吉の師匠である山神様の下に届けてもらったといういわくのある書物である。異聞によると、異界から戻った寅吉は篤胤と再会し、二三の文字を山神さまから訂正されたが、神代文字についてはよくぞ集められたとお褒めと労いの言葉を賜ったと記載している。水位は疑字篇の中に掲載されている二十数種の日文(ひふみ)文字の中から出雲国石窟神代文字を参照にして、禁厭の読解と解説を補足した。

また水位は『禁厭秘辞』の中で、後人の研究者のために禁厭に関する文献資料を下記のように紹介している。

禁厭法の俗間に通用せるは、錦嚢智術全書七冊、妙術博物筌七冊、萬方智恵廼海二十冊、拾玉続智恵海三冊、同新智恵海三冊、萬方玉手箱一冊、萬方雑志五冊、遠當秘記八冊、同附録ニ冊是れ板刻の書なり。又板にならぬ書にては、妙術群門二十五冊、探淵秘事六冊、禁厭百術一冊、和漢禁厭遺鈔十二冊、斎部傳方彙三冊此餘にも多くあれども、或るいは梵字を用い符を書するの類多く、是らの書には功なき物最も多し。又漢書にては四百余部ある中に鴻宝淮南畢術記三冊、墨子枕中五行記ニ冊、玉女隠微一冊、天術淵海六冊是は外国のものながらも取るべき事最も多く、又佛書に至りては禁厭は実に沢山にして、今茲に出す事得ず経文委しく咒とある条は多くは禁厭法なり〔以下略〕 — 『禁厭秘辞』

加えて自身がこれ等数多の文献を紐解いて知悉してるだけでも7~800種のまじない法があり、禁厭の中には死物化したものや霊験のないものも数多含まれているが、中には霊験灼然な尊詞も混じっていて、侮れない感があると見解を述べている。

この巻物との出会いが機縁となって幽界文字に興味を持った水位は、明治23年5月3日に讃岐の門人宅において『鴻濛字典』漢字(太古字および幽界文字)に相当する神代古文字1,069字、大字にて幽界字42字を一気呵成に記した。地上文字文明淵源五千年、幽冥界文字に及んだのはこの字典を嚆矢とする、と土佐五台山の神仙道本部・清水南岳が賛嘆している。

水位は後日、禁厭や呪術に関連する著述を執筆中に再び一昔前に書き留めた記録資料を参考に、『禁厭秘辞』を書き補足しておられる。大洲の矢野玄道は宮地家訪問のおりに、水位からこの不可思議な話を聞かされ、大城戸の川村家に伝来した写しの巻物を譲り受け、また私家製本の数冊を水位に懇願して借覧して持ち帰り模写したと思われる。これらの写本類の一部は、後世になって山口県田布施町の宗教法人・教派神道団体の磐門神社が入手して復刻し、他見厳禁の誓約のもと一部の極少数の信者間に頒布している。この他、田布施町在住の主催者が、宮地家と姻戚筋の兼山神社宮司・宮地美数より『禁厭集』上・下2冊の内の1冊を借り受け、上巻を翻刻出版したが、下巻は未公開である。上巻はまじないや霊符を掲載し、下巻は禁厭の施行法を具体的に記述したものだと言われている。

『禁厭秘辞』と称す和本は山口県田布施の編のみではなく、奈良・京都周辺の古社の土蔵や土佐の門人末孫の旧家などでも模写本は散見される。水位は寛容温和な性格で、矢野玄道に限らず高弟達の所望に快く応じて自身の書籍を貸し与えていたからである[1]

水位没後に宮中掌典職宮地厳夫が遺稿類他神宝類一切を譲り受け、その没後は子息の一人寒川神社宮司・宮地威夫が保管していたが、昭和20年代前半に、香川出身の新聞記者清水宗徳 (神道家)が機縁によりこれらを預かり受けて始めたのが、土佐五台山の神仙道本部である。当時は宮地家の継承者が幼少のため、成人に達し一定の期日が来るまでの間、清水が託された神宝を代行する条件であったが、昭和63年12月3日に清水が、翌年その妻が死去した後に、弟子の数人(北海道紋別滝上の社家の神職並びに紋別潮見町在並びに神戸鈴蘭台在)が勝手に持ち出して私腹として返還しないために、宗家が宮地家の任務を遂行できず現在に到る。

朧夜漫談

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『朧夜漫談』(おぼろよまんだん)は、山口県田布施町にある宗教法人・神道天行居の教祖友清歓真が信者のために書いた論文である。主たる内容は水位の『禁厭秘辞』からの抜粋で、日本に伝わる古いまじないや黒魔術呪術妖術・幻術・隠形術・忍術を説明するほか、引用文献の書名などについても詳細に述べる。

神界に伝わる正伝のものは盗法がきかず仮に盗んでも霊験がないが、逆に魔道系のものは盗むことによって更に霊験があらたかになるとし、また魔道を行う者は終わりを良くせず、子孫に禍が降りかかり、その題名を書き記すだけでもおぞましいことだと記す。

友清は隠秘学の蒐集家で土佐の宮地水位の文献資料蒐集家としても知られているが、この小編に限らず昭和10年頃掲載された天行居機関誌『古道』の「神道一家言」などの論考の中にも『禁厭秘辞』からの引用がある。友清は大本教在籍の頃すでに『幸安仙界物語』(『神界物語』)の端本を入手してその一部を機関誌『神霊界』の中に発表している。後に大本を脱退して一派を構え、格神教から神道天行居と改称したが、その中で蒐集した水位文献並びに各神道学派の資料類や、大本教鎮魂帰神法、断易の九鬼神道、本田親徳霊学川合清丸太古真法継承者の堀明道(天龍斎)の教義などを吸収して、自らの著作類の中に夥しく引用した。

これらの資料類や『禁厭秘辞』に述べられたものを参考に論文としてまとめあげたものが『朧夜漫談』である。

小松島皇大神宮と水位翁

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徳島県小松島市に鎮座する小松島皇大神宮は地元の人々に中田(ちゅうでん)さんとも呼ばれ、戦前は中田皇大神宮とも称されていた。かつてこの神社の神職に増田という土佐の宮地水位門下で玄学を学んだ人物がいた。明治10年頃に阿波国の小松島の地に於いて水位と大先達の言霊学音義説の大家堀秀成翁が同席して神道講演の演説をした折りに増田氏が聴講した縁によると言う。またこの小松島には島そのものを所有する大富豪の多田家があったが、その九代目当主・多田宗太郎は、難病に罹って医者から余命幾許も無いと死の宣告をされ、藁をも掴む思いで、名だたる祈祷師などに加持祈祷を頼むも効果なく、必死の思いで中田皇大神宮の神に命乞いの御祈念をした折に、神職の増田の仲介により土佐潮江の水位を知る。知らせを受けた水位は事前に式次第及び祭事に関する手配の連絡をとって、増田とともに地元の神官8名と童女1人を連れて小松島の多田家を訪れ、一週間の鎮魂および祈祷により宗太郎は69歳まで延命を許されたという。水位は祈祷後に応接間において当主の一生に関しての預言を行い、この霊威に感銘を受けて深く感じ入った宗太郎は、家の宗旨を真言宗から神道に変えて神仙道を深く信奉し、預言通りの死去の日まで水位の経済的援助はもちろん、信心を怠ることがなかったと伝えられている。水位が小松島の多田家に逗留の際、たまたま談が禁厭に及び、多田と増田の懇望により白墨にて額字を揮毫し、水位が記した鳳凰文字四文字の額および神代文字三文字の額が現在も多田家玄関および中田皇大神宮境内に掲げられてあると言う。

多田は水位の預言通りに寿命を授かり明治25年如月5日に逝去した。水位は多田の功績を称えて神界より位階を賜り、小松島での神葬祭の折に祝詞文を奏上して遺徳を偲んだ。その引導文の一部を以下に抜粋する。昭和26年8月31日神仙道本部発行の『神仙道誌』によると、水位の手記には折風67年と幽界の年号で記載されているという。

夫レ人ニハ必ズ天ヨリ定リタル縁アリ。縁アリテ而シテ後ニ思ハザルモ亦会遇ス。会遇シテ而テ後ニ愛敬ノ心自ラ通ズ。茲ニ於テ親愛ノ情ノ惹起シ内意ヲ通ズル事ヲ得、是レ天命ノ然ラシムル所以ナリ。年ヲ亘リテ病勢進ミ二月五日ヲ以テ惜哉身ヲ松下ノ土ニ帰シ魂ヲ幽中ニ脱ス。其報ヲ伝聞スルヤ胸中塞リ俄然トシテ涙ハ眼中ニ血塗リ起居茫然トシテ常ノ心ヲ失フ。尊大人ノ形影前ニ浮ビ夢中ニ現ズ。豈偶然ノ事ニ非ズヤ。而テ君ハ幽ニ入リテ不肖ハ現ニ止ル。現幽分界、身体ト霊魂ト分離ス。嗚呼天下押並ベテ現界ノ体アルヲ見テ之ヲ信ジ霊魂ニ至リテハ凡夫ニシテ神通ナキ者ハ其霊眼前ニ見エザルヲ以テ無キモノトナシ、軽ンジ疎ンジ生前ノ時ヨリ必ズ万事疎略トス。之レ通常人間ノ致ス所ナリ。(中略)余ヤ十二歳ニシテ父ノ名跡ヲ継ギ天満宮ノ神主トナリテ若狭守菅原ノ正昭ト称ス。其際父ヲ上野守菅原ノ重房ト号シ敬神尊王ノ道ニ心ヲ砕キ終ニ幽冥ノ神等ニ拝謁スル事ヲ得余ヤ父ノ敬神ノ功徳ニヨリ神々ヲ眼前ニ拝スル事ヲ得タリ。是レ不肖ガ幽冥ニ通ジ霊魂ノ赫々トシテ存スル事ヲ信ズルノ始メナリ。之ヨリ以来少名彦那神ニ伴ワレテ幽冥中ノ世界ニ出シ、

又仏界ニ往来シ、西洋州中ノ獮摩ノ耶蘇ノ霊界モ一見シ、継ギテ愚賓界・天狗界ニモ入リ杉山大僧正及ビ大山大僧正ニ謁シタリ。其間幽霊ニ談話セシ事モ今拳ゲテ教ヘ尽シ難シ。人死スルヤ其魂ハ三魂アリ。本魂ハ産土神ノ指導ニ随ヒ大国主神ノ御計ヲ受ケテ天神ノ冥府ニ上昇シ奇魂・幸魂ハ家ノ守護トナリ子孫ヲシテ善路ニヨラシム。是レ通常人ノ霊魂ノ行末ナリ。今幽冥世界ノ掟ヲ開キテ君ニ其ノ上等行末ヲ奏ス。君ノ霊魂ハ今三霊共万霊神嶽ヨリ帰リテ家ノ内ニ止ル。此ヲ以テ君ニ其ノ行末ノ安心ヲ謹テ示ス。地球中最モ弘シト雖モ命終ル者ノ霊ハ神道仏道耶蘇ヲ論ゼズ皆万霊神嶽ニ至リテ現世ニ在リシ時ノ善行悪行ノ判決ヲ受ケ各其宗旨ノ界ニ入ル。神道ニ於イテ善行アル神霊ハ、上等ナルハ神集嶽及ビ日界ニ止ル。悪行セシ霊ハ月ノ国ニ適セラレテ大ナル苦ヲ受ク。又仏道ニ於テ善行アル者ノ霊ハ万霊神嶽中ノ下等此界ノ入口躑躅界ニ止ル。是レ経文ニ謂フ処ノ極楽世界ナリ。悪行アリシ者ハ躑躅界中ノ就車界ニ止ル。是レ経文ニ所謂地獄ナリ。其ノ責苦ヲ受クルモ亦大ナリ。君ノ霊魂タル、内ニハ神事ヲ以テ之ヲ祭祀スルト雖モ、外戚ニ於テ之ヲ裏ト称シ祭祀スルニ仏道ヲ以テス。故ニ何レノ界ニモ附着スル事能ハズ。之ヲ以テ万霊神嶽ヨリ裁判ノ中半ニシテ此家ニ帰リ止リ、本年二月二十六日ノ暁ニ君ノ霊来リテ神集嶽ニ参ラン事ヲ告ゲ、外三事ヲ余ニ寄ス。故ニ君ノ霊前ニ幽中ノ大要領ヲ示ス。安鎮慰霊歴代ノ祭祀終リテ後ハ、速ニ万霊神嶽ノ第一裁判官中津大兄ノ官等ニ奉仕シタル神等ニ上告シ、次ニ幽冥ノ大都タル神集嶽ニ入リ、大永宮ノ総轄皇産霊神天照大神伊弉諾命ノ代命タル金闕上相大司命東海王方諸青華小童君ニ上告シテ奇籍大籍籙奇符六等ヲ得テ本魂ハ宮中ニシテ高位ニ居シ・ニ魂ハ霊舎ニ還リ止リテ家運ノ全能子孫ノ久遠ヲ守リ給ヘ。君此界ニ入リ給フ時ハ、第一ノ大門ヲ過ル時大永宮ヘ通行ノ符ヲ請受ケ、道路ノ物一切之レヲ取ル事勿レ。取ル時ハ大ナル罪咎アリ。是レ君ニ告グルノ第一ナリ、第二ノ大門ヲ過グル時、現界土佐国ノ住人宮地堅磐、幽中ノ名ハ幽冥大都大永ノ官属霊宝鴻図総櫃ノ中録事奇符ノ第三等水位大霊寿真人ノ指揮ニ依ッテ水火認調ノ嶺ヲ越シテ以テ大永宮ニ達ッセントスト上告シ、塩精蜜調ヲ受ケ大川ヲ渡リテ西門ヨリ上告シ其指揮ヲ受ケ給ヘ〔以下略〕

注、以下も折尾の古本屋提供による、妄想記事。事実無根の記事を信じている人たちは、処罰の対象になる可能性があります。古本屋がすぐ削除してうそをごまかすあわてぶりを見てください。これから何度でも書き込みしますから。

前述の水位の遺稿や神宝類は土佐五台山・神仙道本部内からも紛失、横領している道士達は、徳島小松島の多田御宗家宅にも侵入し、家人が留守の隙に水位の資料や書簡や写真類を盗み出して北海道紋別滝上並びに潮見町や神戸鈴蘭台に持ち帰っている。水位は几帳面な人物で、上記の引導文の祝詞の下書きを便箋に控えとして書き残しており、この便箋数枚の中にはこのほか多田宗家の願いにより詠じた短冊や伝法書類、神代文字および水位の写真や書簡なども授けた旨が事細かに記載されていて、多田家の当主は水位のものを大事に保管されていたと言われている。

社司鏑木鏺麿との邂逅

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鏺麿は東京浅草現在の台東区に鎮座している由緒ある神社の代々の神官の出である。家学である神道の他に、民俗学にも造詣が深く明治23~24年頃には禁厭に関する草稿を物している。この草案には禁厭の起源から説き起こし、まじない方や禁厭の種類及び病源論にまで説き及び、主に古事記の物語を参照して引用解説を施しているが、その証の成否を確認する為に自著を持参し、明治25年夏に遠路土佐潮江天満宮の水位の下に出向し翁の教えを垂れることにした。邂逅して肝胆を砕く思いで水位翁に禁厭の極意の有無や自著の所感の教示を乞うと、快く承諾され一渉り"まじない"についての見解を述べ蠱の字義に説き及び後に、鏺麿が持参した『禁厭考』にも目を通し、実に懇切丁寧な説明で、さり気なく私見を述べられたが、学識の豊かさと博引傍証の説明に鏺麿は深く感銘を受けたという。禁厭は法を以て無形をして感せしむる物なり。人の善悪を云はず、行ふ人の一念にも関係せる事なり。禁厭を以て人を苦しめ、或は生し、或は詛ひ殺す法ありて禁厭とも詛咒とも云うへど其理に至りては一なるを、善方に用るをマジナヒと訓し、悪方に使うふをトコヒと云ふなり。まさにノロヒとも言ひ習はせしかども、本来は一つのもの也。更に敷衍して古事記に出典の様々な詛法にまで説き及んだ。この水位の博覧強記な説明により、禁厭(まじない)と詛(とごい)と呪(のろい)厭魅(えんみ)の一義が明瞭に判明したと述懐している。水位の著作である玄道或問の中で魂魄についての質疑に対して見解を述べられておられる箇所があるが、弟子に対する師の慈愛に満ちた質疑応答の内容を判読してもわかるように、その玄学的知識の蘊奥は並外れており天衣無縫な水位の学識の深さに驚愕した鏺麿は正式に入門の手続きを踏まえて、水位門下の道士となり鏑木家に伝来する由緒ある社家代々に伝わりたる文化伝統の家学を更に深く究めたと言われている。水位門下の逸材は全国津々浦々に及ぶが、その他にも同胞の神道学者にして道蔵にも造詣の深い伊予大洲の矢野玄道、讃岐の中田皇大神宮神官・増田猶太郎、同県小松島の多田勝太郎、地元天満宮神官の宮地左膳、石舩の宮司宮崎敬壽や常磐先生とも交流のあった原、岡藤太郎、由良藤兵衛、水位側筆の岑正雄など、それぞれに活躍している。

水位の禁厭論

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水位は『禁厭記』や『巫医乃梯』、『巫医大意』、『諸禁厭集』の中で禁厭の原理がどのようなものであるか詳細に弁じている。水位は下記のように述べる。

余が云く、禁厭法にも善なる術も悪なる術もありて、薬の人を生し人を殺す品物のあるが如く、生かすも殺すも其の方を知れる人の心中にあるなり。然れども薬は精神の善悪を問わず一滴の液にて死するものなり。禁厭は法を以て無形をして感せしむる物なり。人の善悪を云はず行ふ人の一念にも関係せる事なり

水位の言葉によると禁厭(まじない)とは、人と人、物と物や人と物のはざまを交り合わせることによる物の変幻や意識の変革を起こすことである。水位は

まじないとは、物に交え合わして其を禁じ厭つ名にして、善き事を持って悪事に交え合して、其の悪事を禁じ厭つも、また悪事を以て善事に交え合わして其の善事を禁じ厭つもマジナイにして、禁厭を以て人を苦しめ或いは生し或いは詛ひ殺す法もありて禁厭とも云へど其理に至りては一なるを善方に用いるをマジナイと訓し、悪方に使ふをトコヒと云ふなり。またノロヒともカジリ言い習はせしかども同一つなるが、大祓詞の天津罪国津罪のなかに蟲物や蠱毒を用いて使役する蠱について触れており、蝦蟇そして蛞蝓の三虫を皿に入れて呪いしに初まる。これらをトコヒと申し厭魅と称す

と述べている。

人を呪わば穴二つという諺があるように、禁厭は循環するものであるがゆえに、よくよく善悪を弁えて施行すべしと言っている。水位は禁厭法の真偽弁別については深長で、『旧事記』『倭姫世記』『上記』『秀真伝』『神遺方』『禁厭帖』などの書物を提示し、書籍は見様が大切で、活眼を開いて正否の区別を見分けなければ、正真の古伝も証念を生ずると言っておられる。古文献と言えども偽作せるものも多多あり、『日本書紀』の中にも偽り事多しと述べておられる。禁厭に関しても同じ事で、まじないの種類も多岐に渡り真正の物と言えども相似したり後人の詞を増加したものが類多く、真正の法と認められる処のものは、二百法余りだと申しておられる。

水位は『古事記』や『古語拾遺』に精通しており、そのきっかけともなった本居宣長の『訂正古訓古事記』を机上に置いて座右の書とし、読書百篇意自ずから通じる域に達していた。水位の論によると『古事記』上・中・下巻の中には禁厭の法についての具体的事例が数多記述されているが、当時の編集に携わった者が読むものに悪影響を及ぼすおそれから、あえてぼかして表現したと述べている。また、術そのものには善悪の区別はなく、その術を施行する者の心の置き所の如何によっては邪ともなり正ともなり他者に影響を及ぼすものであるがゆえに慎重に対応すべきものと述べている。

脚注

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  1. ^ 文献[要文献特定詳細情報]や在野研究家[誰?]への口頭調査によると、当時[いつ?]水位は熱心な弟子たちに対して『禁厭秘辞』と一緒に関連文献として自著の『巫医梯』を貸し与えていたと[誰によって?]推測されている。

出典

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関連項目

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