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王玉汝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

王 玉汝(おう ぎょくじょ、? - 1255年)は、最初期のモンゴル帝国に仕えた漢人の一人。字は君璋。東平府鄆城県の出身。

概要

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王玉汝は幼くして更の仕事を学び、末の混乱期には「貞祐の南遷」に従って河南に移ったが、その後一族の者とともに間道を用いて郷里に戻った。金末の混乱期に東平を中心に自立した厳実が鄆城を支配下に入れると、王玉汝は吏として厳実に仕えるようになり、やがて行台令史の地位に就いた。ある時モンゴル帝国のヒタイ総督府長官の一人である耶律楚材が東平を訪れると、王玉汝の才を高く評価して東平路奏差官の地位に就け、燕京(金朝の首都であった中都)に移り住んだ王玉汝は耶律楚材に家人同然に扱われたという。この頃、厳実は既に老齢にあったため、王玉汝は東平府の総管を代行することを申し出た。この間、済州の長官が厳氏の支配を離れて直接モンゴル朝廷の支配下に入ろうとした事件や、大名路の長官が冠氏などの支配権を奪おうとする事件があったが、いずれも王玉汝の活躍により防がれている[1]。また、この頃東平に寄寓していた文人の元好問と交流を持ち、元好問が帰郷する際に故郷の家を復興する建築資金を提供している[2]

1238年戊戌)、金朝の滅亡を経てヒタイ地方がモンゴル諸王に分割されることになると、厳実の支配下にある東平一帯は10近くに分けられて建国の功臣の家系に与えられることになった。これを知った王玉汝は厳実の事業が無に帰すと嘆いたため、耶律楚材がオゴデイ・カアンに謁見する場を設け、王玉汝はオゴデイに厳氏の領地を分割することをやめるよう訴え出たという[3]。これを聞いたオゴデイは王玉汝の忠義に免じて死罪を許し、分割された東平一帯で課税を行う「行台知事」に抜擢した[4][5]

1241年辛丑)、厳実の息子の厳忠済が跡を継ぐと王玉汝は左右司郎中の地位を授かり、遂に東平行台(厳氏の勢力圏)全体を総括するようになった。オゴデイの死後即位した第3代皇帝グユクの時代にも再び東平の地を分割する話が持ち上がったが、この時も王玉汝の尽力により話は立ち消えになっている[6]。第4代皇帝モンケの即位後、モンゴル帝国の支配下全体で「六両包銀制」と呼ばれる新税制が導入された。王玉汝はこの税制が民に多大な負担を強いるものであるとして強く反対し、他の漢人世侯からも反対の声が上がったため、税額は3分の2(4両)に減額された[7]。 この頃王玉汝の官位は更に上がり、龍虎衛上将軍・泰定軍節度使の地位を授けられている[8]

1252年壬子)、病を理由に王玉汝は官を辞し、史書を編む日々に入った。1255年乙卯)、厳忠済は使者を派遣して王玉汝に官に復帰するよう要望し、王玉汝は固く辞したものの、使者は参議の印をたてに復帰を強要した。やむを得ず復帰した王玉汝は復帰から5・6日で業務を改善させたが、同年8月に隕石が庭に落ちた時亡くなったとされる[9]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻153列伝40王玉汝伝,「王玉汝字君璋、鄆人。少習吏事。金末遷民南渡、玉汝奉其親従間道還。行台厳実入拠鄆、署玉汝為掾史、稍遷、補行台令史。中書令耶律楚材過東平、奇之、版授東平路奏差官。以事至京師、遊楚材門、待之若家人父子然。実年老艱於従戎、玉汝奏請以本府総管代之行。夏津災、玉汝奏請復其民一歳。済州長官欲以州直隷朝廷、大名長官欲以冠氏等十七城改隷大名、玉汝皆辨正之」
  2. ^ 高橋(2021), p. 226-229.
  3. ^ 井ノ崎(1954), p. 37-38.
  4. ^ 高橋(2021), p. 230.
  5. ^ 『元史』巻153列伝40王玉汝伝,「戊戌、以東平地分封諸勲貴、裂而為十、各私其入、与有司無相関。玉汝曰『若是、則厳公事業存者無幾矣』。夜静、哭於楚材帳後。明日、召問其故、曰『玉汝為厳公之使、今厳公之地分裂、而不能救止、無面目還報、将死此荒寒之野、是以哭耳』。楚材惻然良久、使詣帝前陳愬。玉汝進言曰『厳実以三十万戸帰朝廷、崎嶇兵間、三棄其家室、卒無異志、豈与他降者同。今裂其土地、析其人民、非所以旌有功也』。帝嘉玉汝忠款、且以其言為直、由是得不分。遷行台知事、仍遙領平陰令」
  6. ^ 安部(1972), p. 129-130.
  7. ^ 井ノ崎(1954), p. 37.
  8. ^ 『元史』巻153列伝40王玉汝伝,「辛丑、実子忠済襲職、授左右司郎中、遂総行台之政。分封之家、以厳氏総握其事、頗不自便、定宗即位、皆聚闕下、復欲剖分東平地。是時、衆心危疑、将俛首聴命、玉汝力排群言、事遂已。憲宗即位、有旨令常賦外、歳出銀六両、謂之包垜銀。玉汝曰『民力不支矣』。糾率諸路管民官、愬之闕下、得減三分之一。累官至龍虎衛上将軍・泰定軍節度使、兼値州管内観察使、充行台参議」
  9. ^ 『元史』巻153列伝40王玉汝伝,「壬子、以病謝事杜門、日以経史自娯。乙卯、忠済使人謂玉汝曰『君閒久矣、可暫起、為吾分憂』。玉汝堅辞、以参議印強委之、不得已起視事、僅五六日、裁画署置、煥然一新。八月既望、有星隕庭中、已而玉汝卒」

参考文献

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  • 安部健夫『元代史の研究』創文社〈東洋學叢書〉、1972年。doi:10.11501/12185117全国書誌番号:73006578https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12185117 
  • 井ノ崎隆興「<論説>蒙古朝治下における漢人世侯 : 河朔地区と山東地区の二つの型」『史林』第37巻第6号、史学研究会 (京都大学文学部内)、1954年10月、537-558頁、doi:10.14989/shirin_37_537hdl:2433/249154ISSN 0386-9369CRID 1390290699825227392 
  • 高橋文治『元好問とその時代』大阪大学出版会、2021年。ISBN 9784872597165全国書誌番号:23504407https://id.ndl.go.jp/bib/031302961 
  • 元史』巻153列伝40王玉汝伝
  • 新元史』巻137列伝34王玉汝伝