「伊予八藩」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
105行目: 105行目:
== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
*[http://i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/contents 愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)]
*[http://i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/contents 愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)]
*[https://i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/51/view/6652|title=峠の時代/愛媛県史 県政(昭和63年11月30日発行)]
*[https://i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/51/view/6652 峠の時代/愛媛県史 県政(昭和63年11月30日発行)]


{{Japanese-history-stub}}
{{Japanese-history-stub}}

2021年9月15日 (水) 07:33時点における版

伊予八藩 (いよはっぱん、いよはちはん)は、江戸時代伊予国(現在の愛媛県)に置かれた8つのを指す、愛媛県の地方史における用語である[1][2]伊予国では幕政初期には領主の大規模な変動があったが、17世紀半ば頃には8つの藩が成立し、幕末・廃藩置県まで200年余りにわたって藩主家が交代することなく地域を治めた。

八藩

伊予八藩は以下を指す[3][1]。石高については藩の成立以後増減がある場合がある。

藩名 幕末の石高 藩主家 藩の成立 備考
伊予松山藩 15万石 久松松平家 1635年、松平定行が入封
宇和島藩 10万石 伊達家 1614年、伊達秀宗が入封
大洲藩 6万石 加藤家 1617年、加藤貞泰が入封
今治藩 3万5000石 久松松平家 1635年、松平定房が入封 定房は松山藩主松平定行の弟
西条藩 3万石 紀州徳川家連枝 1670年、松平頼純が入封 1636年、一柳直重が3万石の領主となり、次代で改易
伊予吉田藩 3万石 伊達家 1657年、伊達宗純が立藩 宗純は宇和島藩主伊達秀宗の子で、分知立藩。
小松藩 1万石 一柳家 1636年、一柳直頼が立藩 直頼は西条藩主一柳直重の弟
新谷藩 1万石 加藤家 1623年、加藤直泰が立藩 直泰は大洲藩主加藤泰興の弟で、分知立藩。

このほか、川之江には幕府領(2万石)があった。

『愛媛県史 近世 上』(1986年)では近世政治史の叙述として「伊予八藩の成立」までを一章とし、八藩以前の各地域について触れたあと、第二章で「伊予八藩」各藩の藩政の展開および天領の状況を見る構成となっている[1]。なお、一柳氏の西条藩(一柳西条藩、第一次西条藩)については第一章で触れている[1]

「八藩」成立まで

加藤家・藤堂家による伊予二分

関ヶ原の戦いの直前、伊予国を治めていたのは、小川祐忠(国分7万石)[4][5]来島康親(野間風早1万4000石)[4][5]安国寺恵瓊(和気郡など国内に6万石)[4][5]池田高祐(大洲2万石)[4][5]加藤嘉明(松前10万石)[4][5]藤堂高虎(板島8万石)[5]であった。

かれらのうち、関ヶ原の戦いで東軍についたのは加藤嘉明と藤堂高虎のみであり、両者によって伊予国は二分され[5]、それぞれ20万石の大名となった。加藤嘉明は松山城を築き(伊予松山藩)、藤堂高虎は今治城を築いた(今治藩[5]。南予が藤堂領、中予が加藤領となり、東予は両者の領地が混在した[5]

旧藤堂家領

藤堂高虎は慶長13年(1608年)に伊勢安濃津(津藩)に転封されたが、今治城付近の2万石は藤堂家領として残り、養子の藤堂高吉が預かった。藤堂旧領のうち大洲城には脇坂安治が5万3000石で、宇和島城には富田信高が12万石で入った。

宇和島の富田家は慶長18年(1613年)に改易され[注釈 1]、翌慶長19年(1614年)に伊達秀宗が10万石で入った(宇和島藩)。その後秀宗は五男の伊達宗純が3万石を分知し、伊予吉田藩を立藩した。

大洲の脇坂家は元和3年(1617年)、安治の子・脇坂安元の時に転出し、代わって加藤貞泰が6万石で入封した(大洲藩)。のちに加藤直泰が1万石を分知して新谷藩を立藩した。

今治の藤堂家領2万石は、寛永12年(1635年)に伊賀国名張に替地が与えられ、松平定房が3万石で入封した(今治藩)。なお、兄定行の松山入封と同時である。

旧加藤家領

加藤嘉明は寛永4年(1627年)に会津に転封され、代わって蒲生忠知が24万石で入った。蒲生氏は寛永11年(1634年)に無嗣断絶となり、翌寛永12年(1635年)、松山に松平定行が15万石で入り(伊予松山藩)、西条には一柳直盛が6万3000石で入ることとなった。

一柳直盛は入封の途上大坂で病没し、遺領は3人の子一柳直重西条藩3万石)・一柳直家川之江藩2万8000石[注釈 2])・一柳直頼小松藩1万石)で分割された。寛永19年(1642年)、川之江藩一柳家は末期養子を咎められ伊予国内の領地を収公され(播磨国小野藩1万石として存続)、川之江周辺は幕府領となった。寛文5年(1665年)に西条藩の一柳直興は改易処分を受けた。その後幕府領となった時期を経て、寛文10年(1670年)には紀州徳川家連枝の松平頼純(徳川頼宣の三男)が3万石で入封した(西条藩)。

伊予八県

廃藩置県が施行された際に、伊予八藩はそのまま伊予八県となった[6]、のちに伊予松山・今治・西条・小松と川之江の天領が松山県石鉄県(せきてつけん)、宇和島・大洲・伊予吉田・新谷が宇和島県神山県(じんざんけん)に統合され、後に愛媛県として統合された愛媛県#歴史の項も参照)

脚注

注釈

  1. ^ 伊達家が入るまでは旧領主藤堂高虎の預かり地とされた。
  2. ^ これ以前に播磨国小野に5000石の領地を得ていた。

出典

  1. ^ a b c d 愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月15日閲覧。
  2. ^ 峠の時代/愛媛県史 県政(昭和63年11月30日発行)”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月15日閲覧。
  3. ^ 伊予八藩/双海町誌”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月15日閲覧。
  4. ^ a b c d e 秀吉晩年の伊予領主/愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月15日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i 関ヶ原の戦い/愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月15日閲覧。
  6. ^ 伊予八県の成立/愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月15日閲覧。

外部リンク