伊予八藩

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伊予八藩 (いよはっぱん、いよはちはん)は、江戸時代に現在の愛媛県に置かれた8つのをまとめて指す言葉である。

概要[編集]

伊予八藩は主に、

の8つを指して呼ぶ。但し、伊予松山藩支藩の松山新田藩、江戸時代初期には川之江藩などもあったため(詳細は後述)8つではない時期もある。

歴史[編集]

各藩の詳細はそれぞれのページを参照

徳川家康関ヶ原の戦いで西軍を破り江戸幕府を開く前、伊予国織豊大名加藤嘉明福島正則安国寺恵瓊などが伊予を治めていた。戦後の論功行賞で西軍についた恵瓊が領地没収・梟首に処され、東軍についた福島・加藤はそれぞれ備後安芸49万石(広島藩)と伊予松山に20万石へ加増され、加藤が伊予松山藩を立藩した。伊予松山藩はのちに蒲生氏久松松平氏と領主が変わり明治維新まで続いた。

伊予松山藩以外では、関ヶ原の戦いで東軍の勝利に尽力した藤堂高虎が今治20万石を加増され今治藩を立藩(のちに藤堂は伊勢伊賀へ転封)、その後伊予松山藩松平定行の弟・松平定房が3万石を領し今治城へ入城、明治維新まで系譜を存続させた。

藤堂が安土桃山時代に統治した宇和島は、戦後富田信高宇和島城に入り宇和島藩を立藩したが、5年後に改易され一時期藤堂が管理していた。その後1614年仙台藩伊達政宗の庶子・伊達秀宗が10万石で入封し、伊達氏の統治は明治維新まで続いた。宇和島藩の支藩にあたる伊予吉田藩は秀宗の五男・伊達宗純が宇和島藩から3万石を分知して立藩した。

大洲一帯は藤堂高虎が宇和島とまとめて統治しており、大洲城には藤堂高吉が在城していた。のちに藤堂家が津藩に転封後も管理していた。そして1608年脇坂安治が転封し立藩した。脇坂家の統治は2代・脇坂安元1638年信濃国飯田に転封するまで続いた。その後加藤貞泰伯耆国米子より6万石で入封、のちに加藤直泰が1万石を分知して新谷藩を立藩した。

西条藩小松藩に関しては一柳直盛が西条6万石を与えられたが途上大坂で没し、直盛の子の一柳直重一柳直頼がそれぞれ就いた。西条藩はのち直重の子一柳直興が継いだが改易され、5年後に紀州藩徳川頼宣の三男松平頼純が紀州藩の支藩[1]として入封された。川之江藩は直盛の二男・一柳直家大坂の陣の戦功で播磨小野とともに川之江の地を与えられ立藩した。そして直家の死後、直家に嫡子がいなかったため[2]川之江藩は消滅し、そのまま天領となった。

廃藩置県が施行された際には伊予八藩はそのまま伊予八県となり、のちに伊予松山・今治・西条・小松と川之江の天領が松山県石鉄県(せきてつけん)、宇和島・大洲・伊予吉田・新谷が宇和島県神山県(じんざんけん)に統合され、後に愛媛県として統合された愛媛県#歴史の項も参照)

脚注[編集]

  1. ^ 西条藩のページより
  2. ^ 末期養子としていた一柳直次は小野へ減封されている。