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{{基礎情報 君主
[[Image:Jacob Denys - Portrait of Ranuccio II.jpg|thumb|right|200px|ラヌッチョ2世]]
| 人名 = ラヌッチョ2世・ファルネーゼ
'''ラヌッチョ2世・ファルネーゼ''' (Ranuccio II Farnese, [[1630年]][[9月17日]] - [[1694年]][[12月11日]])は、[[パルマ公国|パルマ及びピアチェンツァ]]公(在位:[[1646年]] - [[1694年]])。
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| 画像 = Jacob Denys - Portrait of Ranuccio II.jpg
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| 継承者 =
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'''ラヌッチョ2世・ファルネーゼ'''(Ranuccio II Farnese, [[1630年]][[9月17日]] - [[1694年]][[12月11日]])は、[[パルマ公国|パルマ及びピアチェンツァ]]公(在位:[[1646年]] - [[1694年]])。


== 生涯 ==
第5代パルマ公[[オドアルド1世・ファルネーゼ|オドアルド1世]]と妃[[マルゲリータ・デ・メディチ]]の長男として生まれた。父の死後2年間、叔父[[フランチェスコ・マリーア・ファルネーゼ]]と母の2人が摂政を務めた。
第5代パルマ公[[オドアルド1世・ファルネーゼ|オドアルド1世]]と妃[[マルゲリータ・デ・メディチ]]の長男として生まれた。父の死後2年間、叔父[[フランチェスコ・マリーア・ファルネーゼ]]と母の2人が摂政を務めた。


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1664年、[[イザベッラ・デステ (パルマ公妃)|イザベッラ・デステ]]([[モデナ公国|モデナ公]][[フランチェスコ1世・デステ]]の娘)と結婚、3子をもうけた。
1664年、[[イザベッラ・デステ (パルマ公妃)|イザベッラ・デステ]]([[モデナ公国|モデナ公]][[フランチェスコ1世・デステ]]の娘)と結婚、3子をもうけた。
*[[マルゲリータ・マリーア・ファルネーゼ|マルゲリータ・マリーア]](1664年 - 1718年) [[フランチェスコ2世・デステ]]妃
*[[マルゲリータ・マリーア・ファルネーゼ|マルゲリータ・マリーア]](1664年 - 1718年) - [[フランチェスコ2世・デステ]]妃
*テレーザ(1665年 - 1702年) メルテン公グスタフ2世妃
*テレーザ(1665年 - 1702年) - メルテン公グスタフ2世妃
*[[オドアルド2世・ファルネーゼ|オドアルド2世]](1666年 - 1693年) 公世子。父親より先に死去。[[エリザベッタ・ファルネーゼ]]の父。
*[[オドアルド2世・ファルネーゼ|オドアルド2世]](1666年 - 1693年) - 公世子。父親より先に死去。[[エリザベッタ・ファルネーゼ]]の父。
1668年、[[マリーア・デステ]](先妻イザベッラの妹)と結婚。7子が生まれ、2人が成人した。
1668年、[[マリーア・デステ]](先妻イザベッラの妹)と結婚。7子が生まれ、2人が成人した。
*[[フランチェスコ・ファルネーゼ|フランチェスコ]](1678年 - 1727年)
*[[フランチェスコ・ファルネーゼ|フランチェスコ]](1678年 - 1727年)

2020年4月30日 (木) 04:33時点における版

ラヌッチョ2世・ファルネーゼ
Ranuccio II Farnese
パルマ公
在位 1646年 - 1694年

出生 (1630-09-17) 1630年9月17日
死去 (1694-12-11) 1694年12月11日(64歳没)
配偶者 マルゲリータ・ヴィオランテ・ディ・サヴォイア
  イザベッラ・デステ
  マリーア・デステ
子女 マルゲリータ・マリーア
テレーザ
オドアルド2世
フランチェスコ
アントニオ
家名 ファルネーゼ家
父親 オドアルド1世
母親 マルゲリータ・デ・メディチ
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ラヌッチョ2世・ファルネーゼ(Ranuccio II Farnese, 1630年9月17日 - 1694年12月11日)は、パルマ及びピアチェンツァ公(在位:1646年 - 1694年)。

生涯

第5代パルマ公オドアルド1世と妃マルゲリータ・デ・メディチの長男として生まれた。父の死後2年間、叔父フランチェスコ・マリーア・ファルネーゼと母の2人が摂政を務めた。

オドアルドの治世の間、パルマはカストロ戦争英語版に巻き込まれ、ウルバヌス8世の属するバルベリーニ家が得ようとしたローマ北部の教皇領を獲得した。

1649年、ウルバヌスの後継インノケンティウス10世は、ラヌッチョ2世をクリストフォロ・ジアルダ枢機卿殺害犯として告発した。その報復に、教皇軍はファルネーゼ家の都市を2か月にわたって包囲し、破壊し尽くした。8月にパルマ軍はボローニャから遠くない地点で鎮圧した。彼は金で買い戻そうとしたが、教皇領はパルマに残らなかった。

ラヌッチョ2世の治世の晩年にパルマは、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世と結んでフランスと戦っていた神聖ローマ皇帝ハプスブルク帝国)軍の過酷な駐留に苦しめられた。

家族

1660年、マルゲリータ・ヴィオランテ・ディ・サヴォイア(サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世の娘)と結婚した。マルゲリータは1663年に第2子を出産後に産褥死し、子供2人はともに夭折した。

1664年、イザベッラ・デステモデナ公フランチェスコ1世・デステの娘)と結婚、3子をもうけた。

1668年、マリーア・デステ(先妻イザベッラの妹)と結婚。7子が生まれ、2人が成人した。

先代
オドアルド
パルマ公
1646年 - 1694年
次代
フランチェスコ