フランチェスコ・ファルネーゼ

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フランチェスコ・ファルネーゼ
Francesco Farnese
パルマ公
在位 1694年 - 1727年

出生 (1678-05-19) 1678年5月19日
死去 (1727-05-26) 1727年5月26日(49歳没)
配偶者 ドロテア・ソフィア・ディ・ネウブルグ
家名 ファルネーゼ家
父親 ラヌッチョ2世・ファルネーゼ
母親 マリーア・デステ
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フランチェスコ・ファルネーゼFrancesco Farnese, 1678年5月19日 - 1727年5月26日)は、パルマ及びピアチェンツァ公(在位:1694年 - 1727年)。

生涯[編集]

ラヌッチョ2世・ファルネーゼマリーア・デステの次男として生まれた。

異母兄オドアルド2世・ファルネーゼの死により公国の後継者となり、1694年に侯爵となった。兄の未亡人ドロテア・ソフィア・ディ・ネウブルグ1696年に結婚した。兄の一人娘が、後にスペインフェリペ5世妃となるエリザベッタ・ファルネーゼである。

フランチェスコは非常に内向的であったが知的な子供であった。彼は統治者となると、公国の財政危機を改革するため祭りや高価なパーティーに制限を加えた。彼が兄の妻と結婚したのは、政治的財政的理由からであった。

スペイン継承戦争において、フランチェスコはフランスにもオーストリア側にも友好関係を保った。オーストリアとは伝統的同盟関係にあり、また公妃ドロテアの姉エレオノーレ・マグダレーネ神聖ローマ皇帝レオポルト1世の妃であった。一方、駐イタリアのフランス軍司令官ヴァンドーム公ルイ・ジョゼフアンリ4世の庶子セザールの孫)の元へはジューリオ・アルベローニ司教を送り込んでいた。この巧みな外交により、隣国のミラノ公国マントヴァ公国が戦後オーストリアに併合されたのとは対照的に、パルマ公国は生き残った。

フランチェスコには子供がなかったので、死後は同母弟のアントニオが公位を継いだ。

先代
ラヌッチョ2世
パルマ公
1694年 - 1727年
次代
アントニオ