「坊城俊克」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
加筆訂正
temp追加
10行目: 10行目:
*橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館、2010年。
*橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館、2010年。



{{坊城家当主}}
{{Japanese-history-stub}}
{{Japanese-history-stub}}
{{DEFAULTSORT:ほうしよう としかつ}}
{{DEFAULTSORT:ほうしよう としかつ}}

2017年12月1日 (金) 10:06時点における版

坊城 俊克(ぼうじょう としかつ、享和2年9月11日1802年10月7日) - 慶応元年7月20日1865年9月9日))は、幕末公家坊城俊親の子、母は勧修寺経逸の娘[1]坊城俊明の養子となる[1]

京都で誕生する。文化10年(1813年)叙爵。職事を長年にわたって務め、職事の主席である頭弁蔵人頭右大弁)に昇る。嘉永3年(1850年参議、左大弁。安政4年(1857年権中納言となる。また議奏となり、安政6年(1859年)には武家伝奏として、条約勅許問題、水戸降勅、将軍継嗣問題和宮降嫁など、朝幕の調停に大きく関与した。また文久元年(1861年勅使として和宮降嫁に従って江戸に入り、武家伝奏任命の際の血誓を廃止することに成功した。文久2年(1862年大納言元治元年(1864年大宰権帥を兼任。慶応元年(1865年従一位となるも、同年没。

脚注

  1. ^ a b 『公家事典』550-551頁。

参考文献

  • 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
  • 橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館、2010年。