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*橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館、2010年。 |
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2017年12月1日 (金) 10:06時点における版
坊城 俊克(ぼうじょう としかつ、享和2年9月11日(1802年10月7日) - 慶応元年7月20日(1865年9月9日))は、幕末の公家。坊城俊親の子、母は勧修寺経逸の娘[1]。坊城俊明の養子となる[1]。
京都で誕生する。文化10年(1813年)叙爵。職事を長年にわたって務め、職事の主席である頭弁(蔵人頭兼右大弁)に昇る。嘉永3年(1850年)参議、左大弁。安政4年(1857年)権中納言となる。また議奏となり、安政6年(1859年)には武家伝奏として、条約勅許問題、水戸降勅、将軍継嗣問題、和宮降嫁など、朝幕の調停に大きく関与した。また文久元年(1861年)勅使として和宮降嫁に従って江戸に入り、武家伝奏任命の際の血誓を廃止することに成功した。文久2年(1862年)大納言、元治元年(1864年)大宰権帥を兼任。慶応元年(1865年)従一位となるも、同年没。
脚注
参考文献
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
- 橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館、2010年。