「ピピン (イタリア王)」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
記事の整理 |
||
1行目: | 1行目: | ||
{{複数の問題 |
|||
| 出典の明記 = 2016年11月 |
|||
| 脚注の不足 = 2016年11月 |
|||
| 単一の出典 = 2016年11月 |
|||
}} |
|||
'''ピピン'''([[フランス語|仏]]:Pépin, [[イタリア語|伊]]:Pipino, [[ラテン語|羅]]:Pippinus, [[777年]] - [[810年]][[7月8日]])は、[[フランク王国]]の国王[[カール大帝]]と王妃ヒルデガルトとの間の次男であり、[[イタリア王]]([[ランゴバルド王国|ランゴバルド]]王)(在位:[[781年]] - [[810年]])である。 |
'''ピピン'''([[フランス語|仏]]:Pépin, [[イタリア語|伊]]:Pipino, [[ラテン語|羅]]:Pippinus, [[777年]] - [[810年]][[7月8日]])は、[[フランク王国]]の国王[[カール大帝]]と王妃ヒルデガルトとの間の次男であり、[[イタリア王]]([[ランゴバルド王国|ランゴバルド]]王)(在位:[[781年]] - [[810年]])である。 |
||
== 生涯 == |
|||
初めの名はカールマンといったが、[[781年]]4月14日、教皇[[ハドリアヌス1世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス1世]]が代父となり洗礼が授けられたとき、父カールによってピピンに改名された。同年、ピピンはイタリア王となり、教皇ハドリアヌス1世の手により戴冠された。 |
初めの名はカールマンといったが、[[781年]]4月14日、教皇[[ハドリアヌス1世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス1世]]が代父となり洗礼が授けられたとき、父カールによってピピンに改名された。同年、ピピンはイタリア王となり、教皇ハドリアヌス1世の手により戴冠された。 |
||
13行目: | 19行目: | ||
* ベルタ |
* ベルタ |
||
* テトラーダ - ナント伯ランベール2世と結婚 |
* テトラーダ - ナント伯ランベール2世と結婚 |
||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
{{Reflist}} |
|||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
* 五十嵐修『地上の夢 キリスト教帝国 カール大帝の〈ヨーロッパ〉』講談社、2001年 |
* 五十嵐修『地上の夢 キリスト教帝国 カール大帝の〈ヨーロッパ〉』講談社、2001年 |
||
== 関連項目 == |
|||
*[[イタリア王]] |
|||
*[[ランゴバルド王国]] |
|||
{{中世イタリア王||781年 - 810年}} |
{{中世イタリア王||781年 - 810年}} |
2016年11月19日 (土) 05:57時点における版
ピピン(仏:Pépin, 伊:Pipino, 羅:Pippinus, 777年 - 810年7月8日)は、フランク王国の国王カール大帝と王妃ヒルデガルトとの間の次男であり、イタリア王(ランゴバルド王)(在位:781年 - 810年)である。
生涯
初めの名はカールマンといったが、781年4月14日、教皇ハドリアヌス1世が代父となり洗礼が授けられたとき、父カールによってピピンに改名された。同年、ピピンはイタリア王となり、教皇ハドリアヌス1世の手により戴冠された。
810年、ピピンはミラノにて死去。彼の死後、子供たちはカール大帝のアーヘンの宮廷に引き取られた。
子女
庶出の王子1人と王女5人がいる。
- ベルンハルト(797年 - 818年) - イタリア王(813年 - 818年)、子孫はヴェルマンドワ伯となった。
- アデライーデ - ナント伯ランベール1世と結婚
- アタラ
- グンドラーダ
- ベルタ
- テトラーダ - ナント伯ランベール2世と結婚
脚注
参考文献
- 五十嵐修『地上の夢 キリスト教帝国 カール大帝の〈ヨーロッパ〉』講談社、2001年