「毛呂季光」の版間の差分

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== 生涯 ==
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[[源頼朝]]の挙兵直後から近臣として仕え、頼朝が[[鎌倉]]に拠点を構えて新造した[[大倉御所]]へ移る儀式で、頼朝の馬の右に付いている。[[文治]]2年([[1186年]])、頼朝の推挙により[[豊後国|豊後]][[国司|守]]に任じられ、准[[門葉]]に列せられる。文治5年([[1189年]])、[[奥州合戦]]に参加。[[永福寺跡|永福寺]][[薬師堂]]の[[奉行人]]を務める。[[建久]]2年([[1191年]])、建久6年([[1195年]])の頼朝上洛に供奉。
[[源頼朝]]の挙兵直後から近臣として仕え、頼朝が[[鎌倉]]に拠点を構えて新造した[[大倉御所]]へ移る儀式で、頼朝の馬の右に付いている。[[文治]]2年([[1186年]])、頼朝の推挙により[[豊後国|豊後]][[国司|守]]に任じられ、准[[門葉]]に列せられる。文治5年([[1189年]])、[[奥州合戦]]に参加。[[建久]]2年([[1191年]])、建久6年([[1195年]])の頼朝上洛に供奉。建久3年([[1192年]])、[[永福寺跡|永福寺]][[薬師堂]]の[[奉行人]]を務める


建久6年(1195年)正月に[[中条家長]]と喧嘩となり、双方の縁者が集まって合戦になりかけた。頼朝は[[和田義盛]]を派遣して仲裁させ、家長を出仕停止にし、季光を御所に召して「御家人らに対して戦闘を起こし、命を失うのははなはだ穏やかではない」と直々に諭している。騒動の原因は、季光は由緒により、頼朝の門葉に準じる家柄であったが、家長が[[八田知家]]の養子である権威を誇って無礼を働いたために、季光が咎めたという。この騒動により心経が延期された。『[[吾妻鏡]]』での季光に関する記述は、建久6年10月に鶴岡臨時祭りで頼朝に供奉した記録が最後である。
建久6年(1195年)正月に[[中条家長]]と喧嘩となり、双方の縁者が集まって合戦になりかけた。頼朝は[[和田義盛]]を派遣して仲裁させ、家長を出仕停止にし、季光を御所に召して「御家人らに対して戦闘を起こし、命を失うのははなはだ穏やかではない」と直々に諭している。騒動の原因は、季光は由緒により、頼朝の門葉に準じる家柄であったが、家長が[[八田知家]]の養子である権威を誇って無礼を働いたために、季光が咎めたという。この騒動により心経が延期された。『[[吾妻鏡]]』での季光に関する記述は、建久6年10月に鶴岡臨時祭りで頼朝に供奉した記録が最後である。


子の[[毛呂季綱|季綱]]は頼朝が[[伊豆国]]の流人であった頃、下部(しもべ)らに耐えられない事があって季綱の邸あたりに逃れていたところ、季綱がその下部たちの面倒を見て伊豆に送り返した。この事から頼朝に褒賞を受け、[[建久]]4年([[1193年]])2月10日、武蔵国和泉・勝田(埼玉県[[比企郡]][[滑川町]]和泉・[[嵐山町]]勝田)を与えられており、季光の准門葉入りも、貴種性だけでなく流人時代の報恩に拠るものがあったと思われる。
子の[[毛呂季綱|季綱]]は頼朝が[[伊豆国]]の流人であった頃、下部(しもべ)らに耐えられない事があって季綱の邸あたりに逃れていたところ、季綱がその下部たちの面倒を見て伊豆に送り返した。この事から頼朝に褒賞を受け、[[建久]]4年([[1193年]])2月10日、武蔵国和泉・勝田(埼玉県[[比企郡]][[滑川町]]和泉・[[嵐山町]]勝田)を与えられており、季光の准門葉入りも、貴種性だけでなく流人時代の報恩に拠るものがあったと思われる。
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*[[関幸彦]]・[[福田豊彦]]編著『源平合戦事典』[[吉川弘文館]]、[[2006年]]
*[[関幸彦]]・[[福田豊彦]]編著『源平合戦事典』[[吉川弘文館]]、[[2006年]]
*{{Cite|和書|author=[[毛呂山町立歴史民俗資料館]]|title=鎌倉御家人毛呂季光の活躍と末裔たち(毛呂山町歴史民俗資料館第18回特別展解説図録)|series=毛呂山町史料集第9集|publisher=毛呂山町立歴史民俗資料館|date=2015|ref=harv}}


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2016年5月5日 (木) 07:13時点における版

 
毛呂季光
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 不詳
死没 不詳
別名 太郎(通称)、藤原季光
官位 豊後
幕府 鎌倉幕府
主君 源頼朝
氏族 藤原北家小野宮流毛呂氏
父母 父:藤原仲光
季綱
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毛呂 季光(もろ すえみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。大宰権帥藤原季仲の孫。武蔵国入間郡毛呂郷(現在の埼玉県入間郡毛呂山町)の住人。鎌倉幕府御家人

生涯

源頼朝の挙兵直後から近臣として仕え、頼朝が鎌倉に拠点を構えて新造した大倉御所へ移る儀式で、頼朝の馬の右に付いている。文治2年(1186年)、頼朝の推挙により豊後に任じられ、准門葉に列せられる。文治5年(1189年)、奥州合戦に参加。建久2年(1191年)、建久6年(1195年)の頼朝上洛に供奉。建久3年(1192年)、永福寺薬師堂奉行人を務める。

建久6年(1195年)正月に中条家長と喧嘩となり、双方の縁者が集まって合戦になりかけた。頼朝は和田義盛を派遣して仲裁させ、家長を出仕停止にし、季光を御所に召して「御家人らに対して戦闘を起こし、命を失うのははなはだ穏やかではない」と直々に諭している。騒動の原因は、季光は由緒により、頼朝の門葉に準じる家柄であったが、家長が八田知家の養子である権威を誇って無礼を働いたために、季光が咎めたという。この騒動により心経会が延期された。『吾妻鏡』での季光に関する記述は、建久6年10月に鶴岡臨時祭りで頼朝に供奉した記録が最後である。

子の季綱は頼朝が伊豆国の流人であった頃、下部(しもべ)らに耐えられない事があって季綱の邸あたりに逃れていたところ、季綱がその下部たちの面倒を見て伊豆に送り返した。この事から頼朝に褒賞を受け、建久4年(1193年)2月10日、武蔵国和泉・勝田(埼玉県比企郡滑川町和泉・嵐山町勝田)を与えられており、季光の准門葉入りも、貴種性だけでなく流人時代の報恩に拠るものがあったと思われる。

参考文献