大倉御所

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大倉御所(おおくらごしょ)は、鎌倉時代相模国鎌倉大倉郷(現神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目一帯)の地にあった源頼朝の邸宅。大蔵御所大倉幕府とも。治承4年(1180年)から、承久元年(1219年)まで39年間、鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)の御所であった。

沿革[編集]

源頼朝は治承4年(1180年)8月に挙兵し、10月に鎌倉入りして拠点を大倉に定め、大庭景義を担当として新たな館の建設が行われた。当初は父源義朝の屋敷があった亀ヶ谷が候補地であったが、手狭であり義朝の菩提を弔う寺院もすでに建てられていた事から、大倉の地(東西約270m、南北約200m程度の方形の敷地)になったという。この地が選ばれたのは、大倉が鎌倉の外港六浦と鎌倉を結ぶ六浦道沿いの地であった事と、四神相応の地であった事があげられる。

廊内(敷地内)には、寝殿、対屋、侍所、厩などがあり、東・西・南・北に門がある一般的な貴族の寝殿造であった。頼朝配下が控えていた侍所は貴族の邸宅のそれの2倍の大きさの18(約37.8m)、厩は15間(約31.5m)で奥州の名馬30頭を収容できる規模であり、武家の総帥の邸宅としての特徴が見られる。そしてその近辺には御家人の宿館が立ち並んでいた。御所内には御寝所などの私的な区域と、公的な区域があり、政務は問注所評定を行う西中門廊、内厩侍上などで行われた。

頼朝は同年12月12日に上総広常の邸を出て、完成した新亭に入る儀式が行われた。多くの武士たちがこれに従い、出仕の場である侍所には311人が2列に居並び、侍所別当に任じられた和田義盛が帳簿に出欠を記録した。『吾妻鏡』は「これから以降、東国の人々はみな、頼朝の徳ある道を進むのを目にして、鎌倉の主として推戴することになった。」と記している。それまで鎌倉は漁民や農民のみが住む辺鄙な所であったが、この時に道を整えて村里に名前をつけ、家屋が建ち並ぶようになったという。

建久2年(1191年)3月4日、建保元年(1213年)5月2日に焼失し、そのたびに同一敷地に再建されたが、承久元年(1219年)12月24日の焼失後は再建されず、その後の将軍御所は大倉北条義時亭内南方の仮御所(1219年-1225年)を経て、宇都宮辻子御所(1225年-1236年)、若宮大路御所1236年-1333年)と四転している(松尾剛次説)。

参考文献[編集]

  • 松尾剛次 『中世都市鎌倉の風景』 吉川弘文館、1993年。

関連項目[編集]