「三菱マテリアル総合研究所」の版間の差分
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2016年2月15日 (月) 15:02時点における版
大宮原子炉跡地放射性廃棄物汚染(おおみやげんしろあとちほうしゃせいはいきぶつおせん)は、埼玉県さいたま市大宮区にあった大宮原子炉(三菱金属・現三菱マテリアル)での放射能汚染問題。
概要
さいたま市大宮区北袋町1丁目(旧大宮市)の大半部分を占めていた三菱マテリアル総合研究所敷地内において1999年に放射性廃棄物(ウラン)による汚染問題が発覚した[1]。 問題は1959年の原子炉建設計画にさかのぼる。三菱により実験原子炉を当地に建設されたが、住民・市議会側からの反対を押し切っていたことから裁判に発展。1974年に和解し、原子炉撤去を明文化した(大宮三菱原子炉裁判)。 原子炉撤去により放射能への危機が去ったかと思われたが、1999年3月に建屋の放射能漏れが報道され、科学技術庁の立入調査ののち、さらにドラム缶9000缶以上の放射性廃棄物と核燃料3トンを敷地内に保管していることが発覚し、放射能汚染問題に発展した。科学技術庁の調査までは汚染を隠し続けていた。
研究所新社屋を敷地南に集約新築し、その地下に放射性廃棄物を保管、それ以外の土地は売却することに決定し、2002年から汚染物の調査・土壌の浄化を開始した。2012年に10年がかりの土壌対策工事が終わったものの、行き場のない放射性廃棄物は依然総合研究所内に保管されることとなった。放射性廃棄物はドラム缶3万缶以上と保管量は国内施設で最多となっており、保有量も国内全体の52%に及んでいる。
年表
- 1939年 - 三菱鉱業が北袋町に研究所の位置づけで土地買収。かつて敷地の北側には下原刑場があり、寄りつく人がおらず、一帯が野原であった。
- 1959年 - 三菱金属が原子炉建設を発表。三菱原子力工業株式会社を設立。
- 1974年 - 原子炉を撤去。
- 1998年 - 三菱重工業原子力応用技術部をニュークリア・デベロップメントに統合し、大宮研究部となる。
- 1999年3月17日 - 科学技術庁の調査により放射性廃棄物汚染が発覚。夕には当時の知事である土屋義彦が緊急首脳会議を開く。
- 2001年5月 - ニュークリア・デベロップメント大宮研究部が廃止、東海研究部と統合。
- 2002年 - 土壌汚染対策工事が開始。6価クロム、重金属カドミウム、セレンなどの地下水汚染も発覚していた。
- 2005年 - マテリアル研究所新社屋が完成し、地下にウラン放射性廃棄物を保管。
- 2012年3月 - 土壌・地下水浄化対策工事が完了。
- 2015年 - 区画整理事業(後述)が開始。
跡地利用
2015年より西側の原子炉など研究所機能があった部分は都市再生機構と三菱マテリアルによって北袋1丁目土地区画整理事業[2]として道路などの整備が行われ、売却することになっている。東側のグラウンドや宿舎があった部分には北側に東京都豊島区から造幣局が移転[3]、南側に埼玉県警察の新警察署が建設中となっている。
航空写真
外部リンク
脚注
- ^ 朝日新聞 1999年3月19日付
- ^ 北袋町1丁目土地区画整理事業
- ^ さいたま新都心 開発再び 造幣局東京支局が移転方針
座標: 北緯35度53分34.9秒 東経139度38分25.8秒 / 北緯35.893028度 東経139.640500度